国際空手道連盟 極真会館 東京城西国分寺支部

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もうひとつの独り言 2021年


2021.12.31

第四百六十五回 ギザ10がきた! 

 ギザ10には風格がある。
 特に注意して観察しなくても、いかにも古強者といった貫禄と存在感をそなえているので、他の10円玉に混じっていても自然と目につくのだ。
 あ、ギザ10というのは昭和30年をまたぐ数年間に製造された古い10円硬貨のことで、ふちにギザギザが刻まれているため、そういう略称がついたらしい。
 筆者はいつ頃からか集め出し、現在は7個を所有するに至った。集めてどうするわけでもない。ほかにも集めている人がいるので減る一方であり、稀少価値があるというだけのこと。
 ちなみに今年製造されたばかりのピカピカの10円玉も持っている。新しい銅は赤っぽく見えるので「赤金(あかがね)」と言われているのは周知の通り。蛇足ながら付け加えると「黒金(くろがね)」は鉄で、「黄金(こがね)」は金で、「白金(しろがね)」は銀だが、これを「はっきん」と呼べばプラチナのことになるのだとか。
 というわけで、今回はお金の話題である。
 ワタクシゴトをいえば、今年(2021年)は随分お金を使った。
 引っ越しにともない、パソコン、テレビ、テレビ台、洗濯機、電話機、iPhone、カーテン、ベッド、照明、電気スタンド、コーヒーメーカーまで買っている。もっとも通常ならとっくに買い換えているべきで、いずれも経年劣化の進んだものだった。
 来年はもっと財布の紐を引き締めたいものだ、とお金のことを考えていて、そういえば紙幣の柄はいつ変わるのだろうと、ふと思った。柄は公表されているが、時期まではっきりと知らされていないのではないか。
 新しい一万円札が渋沢栄一になることはご存じの通り。今年のNHK大河ドラマ(筆者は一度も見なかったが)の主人公だが、まあこれも年末になって言うネタではない。
 ところで、絵柄になる人物はどうやって選ばれるのだろう。人格や業績はともかく、紙幣に印刷されるからには、やはり貧相では困る。財布の中に納め、売買に使用されるのだから、どうしても威厳が求められる。
 筆者が小学生だった時、千円札の肖像は伊藤博文だった。そうして友人たちのあいだで「伊藤博文がクラゲになる」という噂がささやかれたのも、その頃のことだ。
 どういうことかというと、次の手順をイメージして欲しい。まず伊藤博文の肖像が印刷された千円札紙幣を用意する。次に、博文のおでこのすぐ下を山折りにする。さらに、そのラインの先端をあごの最下部まで谷折りにしてくっつける。そうすると……。
 あらあら不思議、広いおでこから白いひげがわさわさと伸びていて、それがちょうどクラゲのように見えないでもないのだ。
 あえて種類を識別するなら、エチゼンクラゲかと思われる。子どもに限らず一番身近な紙幣は千円札だが、初代総理大臣の肖像で遊んでいるのだから、オスガキのすることはろくでもない。これが野口英世だと、変身するとしたら、ブロッコリーだろうか。
 そして次の千円札の肖像「北里柴三郎」はどうだ。医学界の世界的な功績者、北里博士は子どもたちにどう遊ばれ、いったい「何」に変身するのだろう。




2021.12.23

第四百六十四回 書きかけて書き損じあり 

 去年の6月、コロナ禍による(なつかしの)第一回目の非常事態宣言が解除されてすぐの頃に、必殺シリーズのDVDコレクションが創刊された。
 なんと、必殺シリーズの全作品が毎回3話収録のDVDとして、隔週刊で発売されるというのだ。その皮切りが『必殺仕掛人』。筆者が購入したことはいうまでもない。
 必殺シリーズの記念すべき第一作であるこの作品を、筆者はこれまで未視聴できたのである。師範からはお叱りを受けたが、観る機会に恵まれなかったのだ。
 そんなわけで、かねてより観たいと思っていたところのDVD化であり、去年から買い溜めしていたのを今年から観ていくという計画を立て、元日に『仕掛人』第一話「仕掛けて仕損じなし」を観たのが約一年前の正月。
 感想は、とにかく重厚という一言に尽きる。見応えがあるともいえるが、後年のシリーズに比べて、いささか疲れる。
 ちなみに、仕掛の対象は「この世に生きていても、世のため人のためにならない人間」だと元締が判断した人物だが、法律を介さずに独断で選ぶのだから、令和の感覚では危険思想でもあり、今だったら視聴者に受け入れられなかったかもしれない。
 仕掛人のメンバーは、元締が音羽屋半右衛門(山村聡)で、その配下の連絡係が千蔵(津坂匡章)。もっとも危険な役回りである仕掛(殺し)担当の主人公が藤枝梅安(緒形拳)、表の家業では鍼医者をしており、その長い仕掛針を武器にして、相手の延髄を一突きにする。市松や秀など、必殺で後々まで引き継がれる技の最初の使い手というわけだ。
 梅安だけでは足りないこともあり、スカウトされたのが浪人の西村左内(林与一)。剣の腕は確かだが、妻子をつれて食うに困っており、第一話で釣り仲間の半右衛門の誘いに応じて仕掛人になる。
 殺しの担当はこの二人で、つまり武器は針と刀であり、必殺後期の現実離れした創作武器や、これでもかという派手で奇抜な殺陣を見せ場にした作品とは大いに違うので、そういうものに慣れた視聴者には地味に感じられるだろう。
 だが、忘れてはいけない。『仕掛人』は池波正太郎の原作小説がもとになっており、あくまでも時代劇のひとつとしてスタートしたのである。
 もうひとつ、後期のシリーズと大きく異なる点として、仕掛料の高さがある。
 ひと仕事が60両などと言っている。ブツブツと不平を口にしながら小銭で仕事を引き受けていた中村主水が聞いたら泣くだろう。でも、いくら不景気で食い詰めているとはいえ、命がけで引き受けるのだから、60両ぐらいは相場かと思われる。
 ストーリー重視のため殺しのシーンも地味だが、回が進むほどに凝り出してきて、最終回の梅安の延髄刺しがもっとも秀逸だった。
 筆者が思ったのは、『仕掛人』はシリーズの中でも別枠で、必殺らしい必殺は第二作の『仕置人』から始まるのではないか、ということ。しかし、そんなことを言い始めたら、「別枠」にしたくなる作品が必殺シリーズでは珍しくないことにも気づいた。何はともあれ、改めて思ったのは、主題歌の『荒野の果てに』が名曲であるということだ。これは間違いない。




2021.12.17

第四百六十三回 変な本 

 こんなことは何の自慢にもならないが、筆者はあまり世界の名作文学というものを読んでこなかった。トルストイやシェイクスピアでさえ一冊も読んだことがないのだから、ちょっと忸怩たるものがある。
 子ども向けの名作を読んでこなかったことに気づいたのが大学一年生生の時で、それから焦ったように『トム・ソーヤーの冒険』『赤毛のアン』『あしながおじさん』『小公女』『若草物語』など、かつての世界名作劇場でおなじみだった作品を立て続けに読み、それぞれ良いと感じた。
 中でも村岡花子さん訳の『赤毛のアン』はすばらしく、アニメにも劇にも映画にもなっているが、まあこれはどうアレンジしても悪くなりようのない原作なのである。
 子ども時代の影響か、どうしてもテレビアニメの世界名作劇場と比べてしまうのだが、『トムソーヤー』と『小公女』はアニメで十分であり、『フランダースの犬』は名作劇場の方が上回っていると思った。もちろん原作あってのアニメなのだが、それだけ世界名作劇場の出来がすぐれていたということだ。
 ちなみに、『若草物語』と『あしながおじさん』の頃は、もう大きくなっていたので、名作劇場のアニメは見ていない。この二作の原作はどちらも良かった。
 わからなかったのは、ルナールの『にんじん』だ。これのどこらへんが名作なのだろうと思った。最初から最後まで陰気で気色悪い。が、見方を変えれば『にんじん』は暗黒小説としては名編かもしれない。
『にんじん』に限らず、世の中には変な本がある。わけのわからない物語が。
 たとえば、知る人ぞ知る夢野久作の『ドグラマグラ』。「精神異常者が書いた推理小説」という設定で、一読した者はかならず精神に異常をきたすといわれる曰く付きの作品。
 筆者も読んだので、精神に異常をきたしたのかどうかはともかく、稀にみる奇書であることはまちがいない。そして名作であることも。台湾でも翻訳されているらしいが、「アーア。チャカポコチャカポコ」のあたりは、どう訳すのだろう。
 ほかにも、イアン・バンクス『蜂工場』。前から読みたかったのだが絶版になっていて入手できず、あきらめていたところ、ハードカバーで復刊されたのを、去年のコロナ休みに読んだ。
 途中、ゾッとするほどグロテスクな場面(そこで登場人物が嘔吐するほど)があり、読者もオエッとなること請け合いなので、これからお読みになる方は要注意である。
 最近読んだ中で、とくに強い読後感を残したのは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』と『動物農場』だ。
 最近って、「今ごろ読んだのか」と言われそうなほどの古典だが、長いこと買い置きしたまま何となく手が出なかったのだ。
 書かれたのは40年代後半で、つまり前者の題名の1984年は未来社会であり、また最悪の世の中といえる。前者はSF、後者は寓話の形式をとっているが、ともに社会体制を風刺した名編で、一読をお薦めしたい(というのは嘘で別に薦めない)。
 ちなみに、あまりにも読みづらく、途中で投げ出しているのが『黒死館殺人事件』である。




2021.12.9

第四百六十二回 残心 

 神と悪魔がせめぎ合っていた極真第五回世界大会。
 派手なKO劇が多かった大会で、テレビやyoutubeでご覧になった方も多いだろう。
 たとえば、フランシスコ・フィリォとアンディ・フグの試合。主審の「やめ」の声と同時にフィリォの上段廻し蹴りが決まり、アンディが崩れるように倒れ、担架で運ばれるという失神KOに至ったのはご存じの通りである。優勝候補の衝撃的敗北に会場は騒然となり、アンディ側のセコンドからはクレームがつけられた。今のは「やめ」の後だった、よって無効だと。
「やめ」の声と同時にフィリォは蹴りのモーションに入っており、途中で止めることはできなかったといえる。が、そんな些末なことは度外視して、当時ご存命だった大山倍達総裁が一言。
「やめと言われた途端、気をぬく方が悪い。今のは有効だ」
 創始者にして最高審判委員長の独断にアンディ側のセコンドも沈黙するしかなくなったが、しかし彼らがそれ以上なにも言わなかった真の理由は、心の内でその言葉に納得したからではないだろうか。
 一般のスポーツ競技ではあり得ないこの総裁の判断は、テレビ放映では収録されていないので、東京体育館に足を運んだ者だけの語り草となるエピソードである。若き日の筆者も、オープントーナメントの現場で「武道の精神」を目の当たりにして心を打たれた。
 武道には「残心」という概念がある。目の前で相手が倒れても、わざと死んだふりをしている可能性があり、背中を見せればうしろから襲いかかってくるかもしれない。だから隙を見せない。筆者は高校生の頃、弓道部に所属していたが、弓道にも残心はあった。矢を放ち終わった後もしばらく体勢を解かず、的から目をそらさないのだ。聞けば剣道にもあるらしい。
 受験でも、模試で合格点を取ることができ、偏差値に余裕があっても、実際に合格しないうちに気を緩めれば本番で足をすくわれる。そんな例はざらに見かけるのだ。
 やや話はそれるが、松井館長は現役時代、審判に与える印象まで考えて試合をしていたという。だから反則などはもってのほか。審判の目を意識するというと、いかにも優等生的というか、しょせんはルールに保護されたスポーツ競技ならではの戦いだと思われるだろうか。
 まず試合運びにそれだけの余裕があることも驚きだが、本気で優勝を狙うなら戦略の一部として(あるいは大前提として)そう考えるのは自然なことである。それ以上に、筆者はこの館長のクリーンファイトに、むしろ底知れぬ凄味を覚える。
 ラフファイトをする人の方が、一見すると強そうに見えるかもしれない。だが、もしかりに試合以外の場でルールなしの戦いをすることになった時、真に恐るべきは館長のような考え方の人だろう。このような人は、立ち位置の高低差や道幅や逆光といった地の利はもちろん、ガラスの破片でも砂でも水でも木の葉でも、身辺に存在する使用可能なあらゆるものを駆使し、戦いを自身にとって有利に展開させる想像力の持ち主だからだ。
 受験生でも、自分の答案が採点官に与える印象まで意識できれば、作問者の意図を読み取り、設問に仕掛けられた罠に気づくようになるのだが。
 おっと、残心からコロナのネタにつなげようと思っていたのだが、書いている途中で思わぬ方に話がそれていったぜい。




2021.12.2

第四百六十一回 自由の価値は 

「俺は自由に生きたい」
 と言っていた友人がいたが、そもそも自由って何だろう。漠然とした開放的なイメージはあるが、定義するならどのような状態なのだろうか。
 私立の学校でも「自由な校風」を謳っているところはある。校則が厳しくないなど、制限が寛容であるという意味だろう。
 が、それは学校によって「与えられた自由」である。籠の内側のスペースが広いというだけで、果てがないわけではない。つまりは可動域の余裕の差であり、動ける幅には限度がある。
 かつての「ゆとり教育」にも同じことがいえる。システムによって与えられる「ゆとり」などあるものか。ゆとりや楽しみというものは、受動的に享受するものではなく、自分で見つけるか、あるいは作り出すものといっていい。
 筆者が通っていたような暴力中学は特殊な例かもしれないが、校則などの締めつけが厳しく、理不尽な教師の言動を目の当たりにする経験を重ねると、反骨が生じてくる。そしてかえって自由の価値を知り、それがけっして当たり前に得られるものではないことを実感するようになる。
 筆者が考えるに、真の自由というのは、野生の状態に近いのではないかと思う。
 むろん比喩的な意味合いにおいてもだ。ようするに独立し、他者に飼われていない状態ということである。
 たとえば水族館などでショーを演じているイルカと、海で泳いでいるイルカを比べたとき、前者を見て、人工のプールに閉じ込められていてかわいそうだと言う人もいる。大海原を「自由に」泳いでいるイルカのほうが幸せだと。
 だが、野生の動物にとって、日々の食料を手に入れるのは大変なことである。また自然界には天敵が存在し、日常的に死の危険がつきまとう。
 一方で水族館にいるイルカは、シャチに遭遇することもなく、毎日エサを与えられ、病気になっても介抱される。こう考えると、どっちが幸福かは一概に決められない。
 人間社会でも、仕事帰りのサラリーマンが飲み屋で愚痴をこぼしながらも会社を辞めないのは、生活の安定が保障され、ボーナスも出て福利厚生が充実している会社員の立場が、自営業よりも居心地がいいと判断しているからだろう。
 拘束もしくは制限されているということは、保護されている状態でもある。自由には危険と責任がともなうのだ。
 経済的にも、ときには死の危険と背中合わせになることがある。野生の動物がそうであるように。そう考えると、あながち脳天気にあこがれる状態でもなさそうである。
 ただし、それでも自由には魅力がある。少なくともすべてを自分でやりくりするリスクを負う覚悟があるならばだ。
 冒頭で書いた友人は、ミュージシャン志望だったが、現在は二男の父であり、保険会社の社員として堅実な道を歩んでいる。正しい選択だったと言うしかない。





2021.11.25

第四百六十回 貸し借りについて 

 前回のYのことについて、補足を少々。
 筆者はYに金を貸し、そして逃げられたことがある。
「バイクが欲しいんだ。俺、そういう楽しみ、何もなかったんだよねぇ……」
 とYはしんみりと語り、協力を求められたのである。
 これは、たとえばおばちゃんが「ダイヤが欲しいのよ。あたし、そういうの持ったことがないのよねぇ……」と言うのと同じで、少しも同情を引くような理由ではないのだが、筆者は独身のサラリーマンで、当時は家賃も会社持ちであり、いささか金銭的な余裕がないでもなかったので3万円を貸したのだ。
 そしたら、Yは逐電した。行方をくらました。道場にも姿を見せない。アパートに電話してもつながらない。どうやら持ち逃げしたらしい。
 人を見る目がなかったのだ、と反省した。筆者も若かった。20代だった。授業料としては高かったが、ろくでもない縁を切ったことになる。そう思った。
 さて、その年の極真全日本大会でのこと。偶然にも会場の片隅で、Yが大谷先生と話しているのを見かけたのだ。
 筆者は開口一番、「3万円返せ」と詰め寄った。Yはその場で財布から一万円札を3枚ぬき(現金で持ち歩いていた)、筆者に返しながら、
「いやあ探してたんだよ。お金、返そうと思って。また会えて良かった。これで親友復活だよ」
 などと悪びれず言うのだった。おおかたの詐欺師というのは、このように人なつっこいのかもしれない。
 その後、筆者にはまとまった金額が入る事情があったのだが、そのことを知ったYは、
「じつは故郷の母が病気になって、治療に10万円いるんだ……。でも、俺、そんな金持ってないんだよねぇ」
 と言い出した。わかりやすい男だった。
「糸井重里が言ってたけど、金を貸すのって、一番かんたんな友情の表現なんだって」
「じゃあ、糸井重里に借りろ」と、そこまでは言わなかったが、さすがに二度と信用することはなく、金を貸すこともなかった。当然、Yとの関係も消滅するのに任せた。
 筆者もお金に困ることはあったが、親からは「本当に困ったら言ってきなさい。なにがあっても友達から借りてはいけない」と言われていた。それもあって友達だからこそ借りられないのが当たり前だと思える。逆に貸すとしたら、戻ってこないつもりで渡すだろう。
 お金ではないが、本やDVDなども、筆者は貸し借りしないようにしている。そんなことがトラブルの元になるのは避けたいし、大人なら自分で買うべきだ。
 とくに本を貸すと、驚くべき確率で返ってこない。なぜだろう。前にも書いたが、本を無料のものとして捉えている人が多いのだろうか。
 それならば人を選ばず、誰であっても貸し借りしないことに決めた方がいい。げんにアジアジに貸している『怪奇大作戦』と『坂の上の雲』のDVD(これは録画したもの)がいまだに戻ってこないし……。べつにいいけど。




2021.11.18

第四百五十九回 やりたいことがわからない子 

 やりたいことがわからない、という悩み自体がわからない。
 そういう人がいたのだ。極真の門下生で、かりにYとしておく。90年代のことだから、Yが現在もどこかの道場に在籍しているかは不明だが、彼はその時、たしか25歳だった。
 10代ならまだありえるかもしれないが、25歳になって自分のやりたいことがわからないとなると、これはもう、やりたいことが「ない」と見ていいのではないか。
 そもそも、なぜそれが悩みになるのだろう。やりたいことが多すぎて時間がない、というならわかる。その時間を捻出するための具体的な方法を考えればいい。だが、やりたいことがなければ、何もしなければいい。極真の門下生なら空手の稽古をしまくればいいのだ。
 筆者は過去の人生の中で、やりたいことがない時期がなかったので、Yの気持ちを理解できず、その悩みに答えることもできなかった(そもそも筆者に相談すること自体おかしい)。
 もっと年齢が下がって、これは小学生の例。親子で主張が異なるケースがあった。その子は中学受験で第一志望にめでたく合格したのだが、同時に別の学校にも特待生として合格していた。そして親御さんは特待生にしたがっていた。そのほうが100万安くあがるのだ。
 どちらの言い分もわかる。出費する親御さんの立場としては無理もないし、受験した本人は「せっかく第一志望に合格したのに、なんで進学させてくれないの」と不満を抱くのもわかる。それで親子のバトルとなった。
 結局、親御さんの意見が通ったらしい。もし筆者がその場にいたら、お母さんにたのんであげただろう。毎日毎日努力して、試験会場で実際に鉛筆を握って正解を書き込んだのは本人なのですから、と。それに進路というものは、自分で決めなければ、何かあった時に後悔することになりかねないのだ。この子はしかし、はっきりと意思表示ができた。
 また、ある年、受験勉強についていけず、6年の夏を最後に退塾することになった子がいた。
 そのこと自体は無理もない。彼を見ていても不向きであることは明らかだった。
 それに、人には時期というものもある。もう少し上の年齢になっていれば彼もついてくることができたかもしれず、いささか早過ぎたともいえる。
 筆者が呆れたのは、リタイヤしたことではなかった。塾に説得されて、彼は最後に夏期講習会だけは出席することにしたのだ。
 もう本当にアホかと思った。塾の立場としては、そりゃ説得するだろう。営業なのだから。
 だが、勉強が嫌いで、自分に中学受験をする適性がないとわかっており、受験を断念して8月末で辞めることになっているのに、夏期講習会などに参加する必要がどこにあるのだ。
 それよりも、小学校生活最後の夏休みを、思う存分に遊んで、めいっぱい楽しんだ方が、貴重な時間を有意義に過ごせるのではないか。
 彼は「他者に説得された」結果、夏休みに毎日塾に通い、興味も必要もない受験用の授業を何時間も聴いていた。苦行でしかなかっただろう。自分のやりたいことがわかっていない人間は、このように時間と金を浪費してしまうのだ。
 学力の面でついていけないことが問題ではない。自分のやりたいことがわかっていない人間こそ本当の阿呆なのだと、彼を見ていて思った。




2021.11.12

第四百五十八回 我が子に託す親 

 前回の内容と似ているうえ、道場のブログとしてはグレーゾーンのネタになるかもしれないが、とりあえず書く。
 筆者は支部内の少年部の試合で、審判のお手伝いをしたことがある。四隅の一角に置かれたパイプ椅子に座ってホイッスルをくわえ、両手に赤と白の旗を持って、優勢だったほうに旗をあげるという副審の一人としてである。
 そのときの親御さん方の応援が熱かった。もちろんそれは、親の心理としては当然のことである。熱が入るのも無理はない。我が子が懸命に戦っているのを、他人事のごとく冷ややかに傍観している人の方が異例だろう。
 が、もし判定で、相手の子に旗をあげようものなら、
「ちょっと、あんた、なんでうちの子にあげないのよ」
 と、筆者は責め立てられ、
「えっ、いや、でも……」
 と気圧されそうな迫力ではあった。もちろんそんなやり取りは実際に交わされていない。あくまでもイメージである。
 ひとつ言いたいのは、負けた我が子を責めている親御さんに対してだ。
 あなたは空手の試合に出たことがあるのですか、と問いたい。
 極真だから実際に打ち合い、防具を装着しているとはいえ、突きや蹴りを当てる試合である。そういう痛さとか苦しさとか悔しさを自分が経験していないのに何が言えるのですか、と思うのだ。
 出場した本人は精一杯戦っているはずだし(そうでなければ一瞬で負ける)、負けて一番悔しいのも本人なのだ。本来なら労ってやるべき立場の親が、さらに責め立ててどうするのだろう。
 いささか唐突だが、ここで筆者はずっと昔にあった、いわゆる「お受験殺人」という事件を、ふと連想した。
 たしか教育熱の旺盛な文京区だったと思う。ママ友同士でお互いの子どもが同じ名門私立小学校を受験した結果、片方が受かって片方が落ちた。その落ちた子の親が、合格した子を殺害してしまったという何とも痛ましい事件である。
 当時のマスコミは、犯人が我が子に自分を投影して、子どもが不合格になったことで自己否定されたような気持ちになっていた、という解釈の報道をしていた。
 もしそれが本当なら恐ろしいことだ。そして不可解でもある。
 親子とはいっても、別の個体である。当たり前だが。
 よって遺伝子を受け継ぐ我が子が、空手の試合なり受験なりで敗北したからといって、親までが負けたわけではない。また、負けたからといって、べつに全人格的に否定されたわけではない。それに第一、親御さんが自己投影するという形で、自分の人生を我が子に託していいのだろうか。
 筆者はそういう親御さんに言いたい。「あなた自身の人生はまだ終わってないのですよ」と。




2021.11.5

第四百五十七回 白雪姫たち 

 コロナの影響なのか、11月になっても運動会が行われているらしい。
 そういえば、かつて運動会の徒競走で物議をかもした「手をつないでのゴールイン」というのがあったが、あれは現実のことなのだろうか。
 身体能力で優劣をつけるのは良くない、という配慮らしいが、あまりにバカらしくて事実かどうかを疑いたくなる。教員の方々がそろってまじめな顔をして、職員会議でそんなくだらないことを決めていたとは思えないのだ。
 もし事実なら可哀想だと思う。誰がって、運動の得意な子どもがだ。
 足の遅い子がビリになったからといって人格否定されるわけではもちろんない。その子には他に得意な分野があることだろう。それに対して、運動会というのは運動の得意な子が活躍できる場なのに、その機会を奪われれば落胆するのではないだろうか。
 一方で、中学受験の加熱ぶりはどうだろう。徒競走で順位をつけることには反対する親御さんも、我が子を有名私立に進学させることには疑問を感じないらしい。限られた席を目指して競い合う受験では、「お手々つないで全員合格」というわけにはいかない。基準に達しなければ容赦なく撥ねられる苛烈な競争の世界だというのに。
 受験で不合格になったときのダメージは、徒競走でビリになったときよりも遥かに大きい。まず目標のために費やした期間と労力がちがう。その願望も強かっただけに、志望していた学校から否定を受けた子の中にはトラウマになるケースも珍しくない。運動会のような一時的なものとは根本的に異なるのだ。
 大前提として、我々は競争のある社会で生きている。それがいいとか悪いとかではなく、現実としてだ。その現実の中でわざわざ「手をつないで全員一位」という茶番を演じさせるぐらいなら、最初から行わないほうが合理的ではないか。
 運動会だけではない。これも聞いた話だが、学芸会か何かの舞台劇で『白雪姫』をやることに決まったものの、複数の子が主役の白雪姫を演じたがり、平等にするために白雪姫が六人になったというのだ。
 みんなの希望をかなえた結果だろう。でも、それで白雪姫たちは満足なのだろうか。そんな形で希望が通ったことに何の疑問も抱かないのだろうか。
 そこで筆者は、ひとつ提案したい。いっそのこと白雪姫をもうひとり増やして、七人にするというのはどうだろうか、と。そして小人を一人にする。
 すなわち、『白雪姫と七人の小人たち』ではなく、『小人と七人の白雪姫たち』にしてしまうのだ。
 物語は小人を中心に展開する。魔女の標的もなぜか小人だ。毒リンゴを食べるのも、最後に王子様と結ばれるのも小人。
 白雪姫が何をしているのかといえば、七人で隊列を組んで「ハイホー、ハイホー、うーれしいなー」と歌って歩くのである。シュールで面白いかもしれない。
 でも、そうすると、今度は主人公の小人の役を奪い合うようになり、また七人ばかり選ばれて、結局は元の状態に戻ってオシマイ、ということになるかもしれないな。




2021.10.29

第四百五十六回 便器が怖い 

 以前、『ねじ式』などで知られるつげ義春先生の随筆を読んでいたら、家屋のありえない場所に和式便器が存在しているというシュールレアリスム風のイラストが挿入されているのを見た。ものさびしい日本家屋の廊下などに、白い和式便器がぽつねんと描かれているのだが、あれはつげ先生が和式便器に不気味さを感じていたからではないだろうか。
 そう、筆者も和式便器は怖い。水洗ではなく、昔ながらの落とし便所である。
 どこがって、まず形状そのものが何となく薄気味悪く、さらに空洞が不気味だったことは言うまでもない。白い手が出てくるという怪談も、和式だからこそ成立する怖さだと思う。
 さて、前回でも創作に触れたが、筆者が初めて一人で物語を書いたのは、中2の時だった。
 題名は、『人食い便器』。口述筆記でも合作でもなく、一人で書いた作品のタイトルが『人食い便器』とは、今更ながら忸怩たるものがないでもない。当時、友人がポケット本サイズの怪談掌編集を持っており、その影響で、友人と二人、同じぐらいの小さな手帳を買ってきて、それに鉛筆で書きつけたのは、本人なりにはホラー作品だった。
 その『人食い便器』の大まかなストーリーというと、まず主人公の文彦という少年が、14歳の誕生日プレゼントに自分専用の便器を買ってもらう(という設定からして荒唐無稽だ)。
 それはたいへん高価な便器で、陶器のいたるところにルビーやエメラルド、ダイヤモンドなどの宝石がちりばめられ、「TOTO」のところは純金でできているというしろものだった。
 文彦はそれを気に入り、トイレはもちろん、勉強や食事まで、その便器のきんかくしのところに座ってするようになる。そんなある日、食事中にうっかり落としたごはん粒が、すーっと吸い込まれるように便器に溶け込んでいくのを見た。
 ためしに今度はおかずを落としてみると、やはり便器に吸い込まれていく。もうまちがいない。この便器は飢えているのだ。それから文彦は便器にも食事を与えるようになる。  ある雨の夜、父親と車に乗っていると、いきなり飛び出してきた老婆を車ではねてしまう。
 夜更けで目撃者はなく、道路の血は雨が流し去っていた。文彦は老婆の死体を便器に食べさせて処理しようともちかける。父も便器が食事をすることは知っていたので、老婆の死体をトランクに入れて家に運ぶ。
 ところが、死体をのせても便器は反応がない。あせった文彦は「食えーっ」と言って便器を蹴る。すると便器はピクンと動き、老婆の死体を吸い込んで消し去る。父は安心したが、初めて便器を乱暴に扱った文彦は、さっき便器がピクンと動いたのが気になって、それ以来、家族と同じトイレを使用するようになる。
 だが、せっかく豪華な便器を買ってやったのに、と母に叱られ、文彦はエサのステーキを持って、久しぶりに専用の便器のところに行く。それはちょうど一年後の文彦の誕生日だった。
 ドアをあけたとき、また便器がピクンと動いたように見えた。文彦はきんかくしにステーキをのせた皿をおくと、すぐ立ち去ろうとする。が、一瞬早くきんかくしがグーンと伸びて上から文彦を包み込み、ぱくんと食べてしまう。文彦は便所の暗がりの中に消えていく。
 ……というめちゃくちゃな話だが、友人はなぜか感心してくれた。ラストシーンは自分でコマ割りのイラストも描いた。内容はともかく、これが残っていないのは悔やまれる。




2021.10.22

第四百五十五回 例のやつ 

 読むことではなく、今回は書くことについて。
 読書が好きで、ある程度の量を読んできた子は、自分でも書いてみたくなるかもしれない。
 筆者も小一の時に短い物語を書いた。というのは正確ではない。まだ本を読んでいなかったので、自発的ではなく、祖母の勧めであり、書いたのも祖母で、筆者が語ったものを手帳にまとめたのだ。ようするに口述筆記である。
 祖母の生前に、実家でその手帳を見せてもらったが、こんな話だった。
 とにかくライオンが村を襲う。そして心臓を奪っていく。筆者は当時『人とからだ』という図鑑を飽かず眺めていたので、小一ながら「心臓」という言葉は知っていた。
 覚えているのは、「ライオンが心臓を取っていくので、村人たちはいやでした。」と書いてあったことだ。おいおい、心臓を取られているのに「いや」どころじゃないだろう。そもそも生きているのか。
 ライオンは最後に「ウォーン」と遠吠えを放つと、なぜか崖の上から海に飛び込み、村は平和になる。理由も脈絡もない、無理矢理のハッピーエンド(?)だった。
 ちなみに祖母は13年前に亡くなっており、この古い手帳も行方が知れない。
 次に小6の時、同級生との合作で『例のやつ』という物語を書いた。お楽しみ会の出し物として、3人で物語を書いて朗読しようと秀才の友達が発案し、面白い試みだと思って筆者も賛同した。パートごとに交代で書きながら、「例のやつ、どこまで進んだ?」などと言ってるうちに、いっそのこと題名も『例のやつ』にしようということになったのだ。
 もちろんストーリーなどない、ハチャメチャの文章遊びだったが、ふざけまくって書いたのが面白く、お楽しみ会で朗読した時も大受けした記憶がある。友達の文章にクセがあり、書くものに個性や特徴が出ることを、この経験を通して初めて知った。とにかく、子ども時代に、読むのも書くのも楽しい経験ができたのは良かった。
 お楽しみ会といえば、小4の時にも、友達4人で『恐竜の王国』という粘土劇をやることに決め、筆者が台本を書いた。その頃は恐竜マニアだったので、恐竜の粘土劇をやろうというのは筆者の発案だった。題名は当時テレビでやっていた動物ドキュメンタリー番組『野生の王国』をもじってつけた。
 メンバーが各自、自分の好きな恐竜を紙粘土で作り、固まる前に下から割り箸を刺し、色を塗って完成させる。お楽しみ会では、4人が教卓に隠れてそれを下から動かし、セリフを語るという一種の人形劇である。
「ここジュラ紀。一億六千万年万年万年……前」とお経ふうに読むオープニングだけは覚えているが、その後のストーリーは完全に忘れた。
 そういえば、いつかこのブログでも触れたと思うが、高校時代の予餞会でも『赤ずきんVS三匹の子豚』という劇の台本を書いた。というか、練習の時間がないから、担任の先生に「一晩で仕上げてこい」などと無茶苦茶なことを言われて書かされたのだった。
 もちろんこれもストーリーなどない、ただのハチャメチャ劇である。……と思い出したところで、文字数がリミットに達し、いきなり終わる。




2021.10.14

第四百五十四回 本は買うもの 

 7月上旬のことだったと思う。
 書店をうろついていて、ふと一冊のムック本が目にとまった。
 正確には、表紙に印刷されている女性の名前と写真が目に入り、「あれっ」と思ったのだ。はっきり言ってしまうと、知人だったのである。
 もっとはっきり言うと、かつての教え子だ。彼女は、筆者が某進学塾で国語と社会を教えていた時の生徒だった。
 中2、中3と受け持っていた記憶がある。その頃から『セブンティーン』という若い女性向けファッション雑誌の専属モデルをしていたが、卒業してすぐだったか、プロの声優になった。『はちみつとクローバー』というアニメの主人公の役だった。
 名前を伏せる必要はないかもしれないが、あえて「K」としておく。筆者が書店で見かけたのは、『ラジオ偏愛声優読本』という雑誌で、まず彼女の名前が目につき、手に取ってみると、巻頭で16ページにわたってカラーで大特集されている。しかも堂々たるアップでの特集だ。なつかしくもあり、うれしくもあって、思わず買ってしまった。
 中学生だった頃のKは、個性的で面白い子だった。筆者の誕生日に、友達と共同でアヒルのおもちゃをプレゼントしてくれたことがある。先生へのプレゼントにアヒルのおもちゃを選ぶというのは、やはり尋常な感性ではないのだろう。もちろん、いいところだけでなく、当時のドジなエピソードも記憶しているのだが。
 そのムック本によると、現在の彼女の活動は声優業だけにとどまらず、ラジオ番組を持っていたり、歌手としてCDもリリースしているらしいので、かげながら応援していこうと思った。
 さて、筆者は普段からラジオ番組に関する雑誌は手に取らないので、このような思いがけない「再会」は、実際に書店の中をうろついていたがゆえの偶発的サプライズである。ネット書店では起こりえないことだ。
 前に本はかさばるので電子書籍にしようかと書いたが、書店をぶらついて何気なく目にとまったものを手に取り、パラパラめくって興味を持つという出会いは、紙の本ならではだろう。
 前回、このブログで図書館のことを書いた。図書館内の空間には、特有のアカデミックで落ち着いた雰囲気があり、筆者もそれが決して嫌いではなく、昔は利用していた。
 しかし、(お金のない子どもや学生は無理もないが)大前提として本は情報の集積であり、欲しい情報というのは、お金を出しても買うものなのだ。
 大人になれば情報の価値に気づかない人は稀だと思うが、かつての職場で「本はタダで読むものだ」と平然と語る同僚がいた。何十番でも待って図書館で借りるか、大型古書店で安値で買い、読み終わればまたその店に売ればいい、などと豪語する。
 書籍が書籍という形態をとって存在している以上、それを市場に出すまでに完成せしめた複数の労力は、けっして無料ではない。彼は読書が好きだったが、自分の好きな文化を、宿主の健康を害する寄生虫のごとく、みずから破壊していることに気づいていなかった。筆者はこのような輩を、心の底から軽蔑してやまない。
 そして不思議なことに、そういう人に限ってなぜか作家志望だったりするのである。




2021.10.8

第四百五十三回 図書館にて 

 読書の秋。筆者が過ごしていた田舎町の図書館は古くて、窓から差し込む日差しは淡かった。書棚は埃っぽく、古書は特有のにおいがしたが、それらはなぜか不快ではなかった。
 海べりにあったもう一軒の図書館には、二階の棚にカバーのない文庫が多数ならんでいた。窓から海が見える図書館の、味も素っ気もない古びたスチール棚に、沈黙して並ぶむき出しの海外ミステリー。誰が借りるねん、と思いながら、味わい深くもあった。
 一方で、高校の図書室は、校内で唯一深いカーペットが敷きつめられ、上靴をぬいで靴下のまま入らないといけない豪華な部屋で、それだけに居心地が良く、筆者らは三年生の一時期、友人と3人で昼休みのくつろぎの場所として図書室を利用していた。
 ある日、入口のカウンターで、貸し出し件数のランキングが表示されているのを見た。
「おい、300冊以上も借りてる子がいるぞ」
 それは2年生の女子だった。年間300冊を超えるとしたら、1日1冊以上ではないか。少なくとも2日に1冊は読み終えている計算になる。
「すごいなあ」
「どんな子かなあ」
 などと少し話してから、テーブルに場所を移し、自分たち内輪の雑談に興じていた。
 すると、しばらくして、突然うしろから、
「わだぢでず」
 という声がしたのである。
 振り向くと、寸詰まりのゴブリンのような女子生徒がニコニコしながら立っている。
「わだぢでず」
 と、彼女は濁った声でもう一度言った。
 意味がわからなかった。わだち……というと、車輪やタイヤの通った跡が道に残っている「轍」のことだろうか。でも、それが今、なぜ突然、この場で話題に?
 やがて理解した。彼女こそが借り出し件数校内ランキング1位の張本人だったのだ。
 彼女は図書委員で、さきほど筆者らが話していた時、カウンターのすぐ裏の控え室にいたのである。そして自分のことが話題になっているのを聞いた。
 感心されている。すごいと言われている。名乗り出たい。自分がその人だと知ってほしい。でも……あらら、3人はさっさとテーブルに行ってしまった。そこでしばしのタイムラグの後、
「私です(さっきあなた方が話題にしていたのは)」と名乗ったのだろう。
 筆者らが引いたことは言うまでもない。そんな話題はとうに終わっているのだ。
 だいたいこんな知性皆無のゴブリンが1日1冊以上のペースで読書しているわけがなく、おおかた借りるだけ借りて、読まずに返していたのだろうと思った。
 なお、蛇足であることを承知のうえで追記すると、美幸先生も相当な読書家で、高校生の頃は上記の女子生徒をはるかに上回る冊数の本を借りていたが、もちろん本当にお読みになっていたことは間違いなく、今回の内容と美幸先生(および、やはり読書量が半端ではない長女さん)とは、まったく、全然、本当に何の関係もありません。……と強調しておかないと。




2021.9.30

第四百五十二回 ハードボイルドの時代 

『Gメン』についてもう少し。
 筆者らは中学の修学旅行で東京へ行ったが、バスで高架の高速道路を通っているとき、ガイドさんが右手のビルをさして「ここが、あのGメンの本部です」と紹介し、車内が「おおーっ」となった。こんなわかりやすいところに本部を見せていて悪人に狙われないのだろうか、と筆者などは思ったが、現在ならこのような紹介をしても誰も反応しないだろう。
 ハードボイルドの時代だったのだ。
『キイハンター』は残念なことに本編を見たことはないが、OPを見ては千葉真一のアクションが気になっている。当時はあったのだな、こういう番組が。現在のぬるい世相では放送されないだろう。野際陽子もミニスカで男を投げとばしてはしゃいでいる。若い。
 主題歌は『非情のライセンス』という。「昨日愛した人の墓に花を手向ける明日」で始まる歌詞がいいし、曲もいいが、題名からして大藪春彦の作品を連想させる。
 テレビドラマではなく書籍の話になるが、大藪春彦という作家をご存じだろうか。
 映画化された『野獣死すべし』や『蘇える金狼』、『汚れた英雄』の作者だが、読書が嫌いな現在の若者(とくに男性)は、一読すれば「こんな本があったのか」と衝撃を受けて受けてむさぼり読むのではないかと思う。
『野獣』シリーズの主人公、伊達邦彦は、映画では松田優作(古くは仲代達矢)が演じていたが、もし筆者がキャスティングするなら、秀さんの頃の三田村邦彦である。これについては師範には賛成していただけなかったが(後年の邦彦の身体的なデータが理由)、彫りの深い顔立ちと、渦を巻いた黒髪、翳りのある美貌などが見事に原作のイメージと一致し、しかも名前まで同じなのだ。
 ちなみに、ハイウエイハンター(エアウエイハンター)シリーズの主人公、西城秀夫と、西城秀樹との関係は不明。世に出たのは秀夫のほうが早いので、西城秀樹が一文字もじって芸名にしたのかと思ったが、そうでもないらしい。
 大藪と交友があり、やがて狩猟についての見解から疎遠になった作家に、西村寿行がいる。
 この人の作品はハードロマンと呼ばれ、常識外れなまでにスケールが大きい。『赤い鯱』での、原子力潜水艦を拿捕する方法など、驚嘆した。
『汝!怒りもて報いよ』『去りなんいざ狂人の国を』『往きてまた還らず』など、題名は漢詩翻訳調だが、文体は歯切れがいい。強烈な内容に、小説でここまでやっていいのか、というカルチャーショックを覚えながら、読むのがやめられなかった。とくに『滅びの笛』は必読だ。
 筆者は山田風太郎の大ファンであり、師範のオススメで夢枕獏や菊地秀行も読んだが、あの頃の本は規格外にぶっとんでいて、ページをめくる手が止まらないほど面白かった。本嫌いの子がそういう作品に出会っていれば、読書が真面目な勉強でも苦行でもなく、他に代えがたい娯楽であることに気づくはずだ。
 もし学校課題図書ばかりだったら、いささか苦行の面がないわけでもなく、最初の出会いで読書嫌いになるのも無理はないように思える。




2021.9.23

第四百五十一回 わけのわからない武器 

 久しぶりに無難な必殺ネタを。
 使用される武器についてだが、まず時代劇だから、中村主水をはじめ刀の使い手は珍しくない。鍼医者の仕掛針にしても三味線屋のバチや糸にしても、職業がら使い慣れた道具を用いるのは、ごく自然といえる。しかし、だからこそ足がつく恐れもあり、危険でもある。
 仕事人・参(笑福亭鶴瓶)のポッペンや、政(村上弘明)の花など、なんでまたそんなものを……という奇っ怪な武器もあるが、極めつけは『新仕置人』の虎(藤村富美男)で、なんと「バット」を使う。もちろん江戸時代の日本のこと、正確には野球のバットに模した棍棒だが、これは藤村が元阪神タイガースの選手だったが故のスタッフのお遊びである。
 虎は元締なので、普段はみずから仕置に手を染めることはないが、裏切り者を粛清する際にこの武器を使ったことが二度ばかりある。一度は相手そのものを打ち、もう一度は相手が投げてくる爆裂弾を、そのバットで打ち返して顔に命中させるという、通常の時代劇では考えられないことをしている。  中には現実には存在しないオリジナルの創作武器も登場し、早くも第四作の『仕留人』で貢(石坂浩二)が使っている。
 わけがわからない武器の典型は、『仕舞人』の晋松(髙橋悦史)。縒り合わせた布製の紐を相手の首に投げ、引っかけて締めるのだが、絞殺するのではないらしい。紐の中には薄く伸ばした平たい針金が仕込まれており、それを一気に引きぬくと、相手が息絶えるのである。この仕組みが不可解だったのだが、解説本によると、中の針金で頸動脈を切り裂いているのだという。
 ちなみにこの武器は不評だったのか、続編の『新仕舞人』では、晋松は拍子木を使うようになる。芝居の開幕や閉幕に鳴らす拍子木を投げ、紐を悪人の首に巻きつけて、両端の拍子木をカチーンと鳴らすと、相手はカクンと首を垂れて絶命するというわけだ。
 ここで「お命、ご用~心」などと言うのだが、まったくもって余計なセリフである。仕舞人は旅芸人の一座だから、晋松が持っているのは芝居の拍子木なのに、それを火の用心の道具と重ねているのだ。だいたい「ご用心」もなにも自分が手に掛けているのだし、それを口にしているのは殺した後ではないか。
 ほかにも、唐十郞(沖雅也)や、『うらごろし』の先生(中村敦夫)が使う武器もわけがわからない。修験者でありながら大事なはずの旗印を武器にするとは何ごとだろう。
 後期に入り、この頃になると筆者はもう白けて見なくなっていたが、夜鶴の銀平(出門英)や、かげろうの影太郎(三浦友和)、そして金粉を吹くかとうかずこなど、奇をてらった創作武器が当たり前に使われるようになってくるのは、シリーズ衰退の証であろう。
 だが、もっとひどい武器がある。筆者がこれは必殺史上で最低だと思っている武器は、『からくり人・血風編』の土左ヱ門(山崎努)が使う「拳銃」だ。
 飛び道具を使うにしても『新仕置人』の巳代松が持っている手製の短筒は、射程距離わずか3・6メートルというハンディキャップがあり、中間距離までの接近を余儀なくされるが、時代劇でウインチェスターというのは白けるし、いくら何でも無節操すぎると思うのだ。




2021.9.17

第四百五十回 4つのホント partⅡ 

 このブログが始まったのは、2012年。その第24回に『4つのホント』というクイズをのせている。興味のある方はご覧いただきたい。「野生のサメを素手で捕まえたことがある」など、5つのネタのうち、嘘がひとつだけある。その嘘を見破るという遊びである。
 今回は、その第2弾をやってみようかと思う。いずれも筆者の体験である。次の5つの中に嘘がひとつだけある。あとはすべて事実。その嘘を見抜いていただきたい。

1・酔っ払って、駅のホームから線路に落っこちた。
2・キングギドラ(三つ首の龍)に追いかけられた。
3・路上で土下座した。
4・神社で神主さんたちに拝まれた。
5・ロックバンド「筋肉少女帯」のヴォーカル大槻ケンヂと殴り合った。

 しばし考察の後……。以下、解説編に移る。答は出ただろうか。
 part1との違いは、これまでのこのブログで、ネタに触れていることである。
 答は、1の「酔っ払ってホームから線路に落っこちた」が嘘。
 これは逆で、酔っ払って某私鉄沿線のレールの上を歩いていて、線路からホームに這い上がったのだ。もう時効なのでいいだろう。当ブログの第104回(2014年)に詳述している。
 あとはすべて事実ということになる。2の「キングギドラに追いかけられた」は、第264回(2017年)をご覧いただければわかる。まぎれもない事実である。
 3も、ご記憶の方は見破ったに違いない。土下座した相手は市村先生で、江口師範と美幸先生の眼前だった。第310回(2018年)を参照されたし。
 4と5は初出のネタで、どういうことなのかというと……。
 4は故郷の街で同窓会があった夜のこと、帰れなくなって野宿しなければならなくなり、どうせなら屋根のあるところで……と、友人と二人、神社に入って神棚の間に寝たのである。
 朝、柏手の音で目が覚めた。神社にとっては迷惑至極だっただろう。神棚の板の間に寝転がっていた筆者たちは「神」あつかいされて、二礼二拝一礼された。やがて「最低のやつらや」という声などが聞こえ、剣呑な雰囲気になってきて、そそくさと退散したのだが……。
 もちろん、いけないことをしたと猛省している。タイムマシンがあったら謝りにいきたい。
 5の「大槻ケンヂと殴り合った」はタネを明かせば何のことはない。「筋少」の大槻ケンヂ氏は格闘技マニアで、当時の格闘技雑誌で極真の世界チャンピオンと対談し、「そんなにお好きなら」とチャンピオンに入門を勧められていた。そして実際に入門していたのである。
 分裂した後の代田橋道場だった。白帯の中に「大槻さん」と呼ばれている人がいて、よく見ると大槻ケンヂだったのだ。
 殴り合ったというのは、ようするにスパーリングしたということ。筆者はミュージシャンとしての大槻氏より、作家としての彼の作品が好きだったので、言葉を交わすことができて嬉しかった。指で顔をギザギザに横切る仕草をして「これ、普段はないんですね」と言うと、「一万回ほど言われています」と返されたけど。




2021.9.9

第四百四十九回 伝説のテレビドラマ 

 このブログでは、必殺シリーズをはじめ、DVDマガジンについて何度か触れている。昭和のテレビ番組が廉価で全話コンプリートされているのだからありがたい。
 そして今年、あの伝説の刑事ドラマ『Gメン75』がリリースされたのである。
 これまでにもBOXで購入しようか考えたことはあったが、いずれのコレクションも「傑作編」と銘打ってセレクトされたもので、しかも高価だった。人によってどの話を面白いと感じるかは異なる。筆者は他者が編集したものより、とにかく全話見たかった。といっても355話もあるので、せめて倉田保昭の「香港空手シリーズ」が含まれる最初の5年分ぐらいは欲しいのだが……と思っていたところ、今回、全話収録の創刊となったのだ。1巻に3話ずつで、現在9巻まで出ているが、もちろん買っている。
 子どもの頃、この番組を見始めたきっかけは、神戸のいとこ姉妹が正月にうちに来たとき、「関屋がいい!」などと話していたからで(小学生のくせに渋い好みだ)、その関屋警部補(原田大二郎)の殉職する回が正月に放送されて、いっしょに見た記憶がある。
 ほかに覚えているのは、「魚の目の恐怖」という回で、これはトラウマ級の怖さだった。
 無実なのに冤罪で絞首刑にかけられそうになる話もあり、「なにもしていないのに、自分がこんな目にあったら」と思うと、死刑直前の様子が強烈に怖かった。
 大金を盗んで警官隊に包囲された犯人が発砲する話もあった。パトカーで駆けつけた制服警官が車を降りた瞬間、犯人が二発発砲し、警官が二人ともコロンコロンと人形のように倒れる。そのあまりに無造作な射殺とあっけない死ざまが、子ども心にはショックだった(いまだに覚えているぐらいだから)。だいたい刑事ドラマにおける制服警官の役割は無惨な殺られ役と決まっており、あれを見ていた子どもは警察官になりたくなくなると思うのだが。
 一方で、ラストに犯人が警官隊の一斉射撃で蜂の巣にされる回もあった。『俺たちに明日はない』のような撃ちまくられ方だ。これも子ども心に衝撃だった。
 今回のDVDでは、第一話から冒頭に46年前の東京の夜景が映り、主題歌『面影』が流れる。演出が凝っている。現在でも楽しめるストーリーだが、刑事モノなのでたまに札束が出てきて、一万円札の肖像が聖徳太子なのは時代を感じさせる。
 第三話では、後にアイドルとして大ブレイクする伊藤つかさが子役でゲスト出演しているのだが、当時8歳で、かなり幼い。ちなみに筆者は伊藤つかさよりも年下なので、見ていて「あの頃の自分は、こんな子よりも幼かったのか」と驚きつつ思った。そりゃ残酷シーンにショックを受けるわけである。
 さて、そんなえげつない『Gメン75』を現在になってふたたび見ることができるのは嬉しいかぎりだが、筆者にはもうひとつ、どうしても見たいと思いながら実現していない伝説のテレビドラマがある。  それは『キイハンター』。『Gメン』より前の土曜枠で放送されていたアクションドラマだ。
 見たいのは、もちろん千葉真一が出ているから。日本人の俳優で一番好きだった。だけでなく、極真の大先輩でもある。ブルース・リーも注目していたという千葉真一のアクションを毎週見ることができたのだから、当時の視聴者は幸運だったと思う。




2021.9.3

第四百四十八回 夏休みアニメ映画祭り 

 夏休みになると、よく「夏休み子どもアニメ映画祭り」というイベントがあったが、今でもおこなわれてているのだろうか。
 筆者は今年の夏、なぜかアニメ映画をたくさん見た。いわば「夏休み大人アニメ映画祭り」だが、実際は夏休みでもなければ新作でもなかったりする。
 見たものを羅列すると、『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』『銀河鉄道999』『AKIRA』『攻殻機動隊』『若おかみは小学生! 劇場版』『千と千尋の神隠し』『鬼滅の刃 無限列車編』の8本。半分以上は手垢のついたようなラインナップだ。いずれもDVDで視聴した。
 このうち『攻殻機動隊』は売る前にもう一度見直してみようと思って見たのだが、やはりついていけず。初めて『AKIRA』を見たときのような洗練さは感じたものの、正直言って筆者には難しすぎた。 『若おかみは小学生! 劇場版』というのは、去年のコロナ休みのとき(5月)にNHKのEテレで放送していたのを何気なくつけていたのだが、見ているうちにはまり、最後には感動した。泣けるのだ。で、結局はDVDまで買った。この作品はオススメである。
 まず題名だけで勝利だろう。児童文庫の原作がもとになっているので、妖怪などの登場が荒唐無稽だが、一方で旅館の仕事がリアルに描かれている。バランスがいい。
 そしてテーマ。人に対する細やかな心づかいの大切さを、物語を通して伝えている。主人公の女の子は小学生ながら滅私奉公をするのだが、それが旅館の若おかみの仕事を通してだから、ごく自然で無理がなく、説教くさくも押しつけがましくもなく描かれているのだ。
『千と千尋の神隠し』は、なんと今年初めて見た。去年まで興行成績がトップだった超メジャーな映画だから、多くの方々がご覧になっているだろう。筆者はこれまでずっと機会がなく(というか見ようとせず)、劇場公開から21年が過ぎた今年になって、ようやく見たのである。
 それ自体が一都市のような温泉宿や、不気味にして絢爛たる異世界、海面を走る列車など、なんというか、巨匠・宮崎駿監督のアイデアと情熱が詰め込まれた圧倒的な一作で、アニメーション映画の金字塔といえるだろう。『カリオストロの城』もそうだが、ほかの原作をもとにした作品より、監督自らによる原作・脚本のほうがいいのではないかと思った。
 そして、その『千と千尋』の記録を塗り替えた『鬼滅の刃 無限列車編』。去年の公開作だが、あれだけブームになったのだから、今ごろ初めて見るのも時代遅れかもしれない。
 これも面白かった。驚いたのは、作品の背景となる設定が紹介されていないこと。初映画化なのに、鬼がいて、それがどういうもので、鬼殺隊や「柱」がどういうもので、主人公の過去に何があったのか、禰豆子はなぜ鬼で竹筒をくわえているのか、など、いっさい説明がない。それが新鮮であり、スタッフの賢明さを感じた。ほんとに原作の無限列車編だけを切り取って映画化されており、それだけに内容が充実しているのだ。
 原作がいいので、このように丁寧にアニメ化されたものが良くないはずがない。音楽も合わせて完璧なアニメ化とはこのことだろう。『鬼滅』は、このあとは遊郭編につづけて、最後の無惨との決着まで映画化してほしい。




2021.8.27

第四百四十七回 是非もなし 

 世に「引っ越し貧乏」という言葉があるが、まさに筆者などその典型であろう。
 引っ越しそのものに加え、テレビ、洗濯機、iPhone、ベッド、カーテン等々、新居に合わせた身の回りの道具を買いそろえたことで、大金が飛んでいった。
 テレビや洗濯機はもう古く、本当はもっと前に買い換えるべきだったのを先延ばしにしていたので、この際だからと思いきって購入したのだ。カーテンなどは21年も使っており、紺色の地が日に焼けて、一部白っぽく劣化変色していた。
 そういえば今年はオリンピックがあったが、せっかくテレビを買っても(しかも東京で開催されたというのに)、時間的にも精神的にも観戦できる余裕がなかった。
 お金だけでなく、今回の引っ越しは時間も使いすぎた。
 取りかかる前はやる気ゼロで腰が重いのだが、いったん作業を始めると集中し、途中で弁当を食べるのに10分ほど座った以外は、午前8時から午後7時まで11時間も立ちっぱなし。終わればクタクタになっているという日が何日かあった。いずれも休日だが、なんという無意味で味気ない時間の使い方だろう。せっかくの休みなのに、時間がもったいなさすぎる。
 本の多さにも、心の底からうんざりし、引っ越してから古書店に売りまくった。
 その数、段ボールで11箱。さらに、売り物にならないと判断した本は捨て、人にもあげた。本は合計で900冊ほど。DVDは80本ほど処分したことになる。
 それでも、まだ5000冊以上はある。いつの間に増殖したのだ、こんなに。  筆者はこれまで紙本原理主義だったが、今回の引っ越しで延々とつづく果てしない梱包作業に心身ともに疲弊し、これ以上は紙本の数を増やさず、電子書籍で買うことにしようと思うきっかけになった。
 お金も節約しなければ、と思っていたら、先日、パソコンが壊れた。
 ある日突然、カーソルが動かなくなり、そのままいっさいの機能が停止。うんともすんとも言わないのだから手も足も出ない。カスタマイズして注文したやつなのに。内部のパーツが劣化していたような壊れ方だった。いや、買ってまだ2年半だ。ったく、こんなポンコツを市場に出したメーカーも人間も心の底から軽蔑していたので修理には出さない。前から不具合の多いマシンだったし、愛着もないので見捨てた。
 是非もなし。そっこーで決断して、土砂降りの雨の中を買いに行く。
 駅ビルのノジマに行くと、店員がコロナにかかって営業休止との張り紙が。
 電車に乗って移動。もちろんNECのパソコンは二度と買わない。
 帰ってデータを移そうと思ったら、旧パソコンは電源すら入らなかった。大切なデータがすべて消えてしまったぜい。バックアップごと取り出せないのだから、ほんと最低のマシンだ。
 お金以上の損失である。実際、出費も痛いけれど。テレビに洗濯機にiPhoneにベッドに加えて、パソコンまで……。と思っていると、天からの啓示のように大山総裁のお言葉が。
『金を失うことは小さい事である。信用を失うことは大きな事である。勇気を失うことは自分を失う事である』
 けだし名言なり、と筆者も思った次第である。




2021.8.20

第四百四十六回 引っ越しました! 

 長らくご無沙汰しておりました。申し訳ありません……などと謝るのは傲慢かもしれない。
 なぜって、このブログを待っていてくれる方がいると考えていることになり、それ自体が思い上がりにほかならないからだ。でも、予告なしに中断するはめになったことは謹んでお詫び申し上げつつ、もちろん理由も説明しなければならないだろう。
 はい、まずは引っ越したのである。ゴールデンウィーク中に。
 移転先は同じ国分寺市内で、前の住所からほんの500メートルばかり離れたところ。理由は狭すぎて限界を超えたから。
 本当は去年引っ越したかったのだが、コロナ騒動で身動きできない状況だった。
 今年になってもコロナ禍は収束していないけれど、「もう待っていられない!」と背ビレじゃなくてシビレを切らし、「これ以上は荷物が増えないうちに」と考えて決行した次第。
 筆者は引っ越しをよくするほうで、これまでの人生で22回も経験している。父親の仕事の都合で転校もしたし、故郷を離れて関東に出てきてからも、住居が気に入らなければ、早くて半年で転居していた。思えば若く、それだけ身軽だったということだ。
 今回が23回目の引っ越しで、前回は9年前の晩秋になる。引っ越しの間隔が9年もあいたのは初めてのことで、過去のデータを元に自己分析したところ、どうも駅から近いところだと長く住む傾向にあるようだ。
 9年前ということは、このブログを始めている。確認してみると、自身の引っ越しについてはまったく触れず、何ごともなかったかのように国分寺道場20周年のパーティーに出ている。
 それに比べて今回の引っ越しはオオゴトだった。荷物が増えすぎて、今までで一番大変だった。それにお金もかかった。前回は約1・5キロの距離を移動、今回はその3分の1の500メートルばかり先への転居だったのに、料金は3倍以上だったのだ。
 そんな理不尽なことがあるか! と思ったが、なんでも物件の前の道が細くて大型トラックが入れず、中型トラック2台に分けておこなったので、作業員の人数が倍になったことが理由だった。
 9年のあいだに荷物が大量に増えていたこともある。そのほとんどが書籍だが、こうなると辟易して、いよいよこれまで敬遠していた電子書籍への移行を考えたくなった。
 さて、市内の引っ越しでも、建物が違うと新たにネットの開通工事をする必要があるらしく、それがコロナの影響で時間がかかり、当ブログを更新できなかったというわけである。
 具体的にいえば、ざっと45日間。そのあいだ、ネット回線とそれを利用するすべての機器が使用不可能に陥り、たとえば固定電話やプリンターなども機能せず、ITというのは不便なものだと痛感した次第である。
 これだけの日数のあいだ更新しなかったのは、当ブログが始まって以来、初めてのことだった。こうなると回線が開通してからも、再開するタイミングがつかめず、きっかけがないままコンニチまで至ったのである。
 なんでもコロナのせいにすれば言い訳になりそうな昨今の情勢だが、公共機関の予約などは、十分に余裕を見ておいたほうがいいのは事実のようだ。




2021.5.6

第四百四十五回 L美の場合 

 前回のU子の話で思い出したことを。
 妹の結婚式が近づいた時、前もって釘を刺されていたことがあった。
「友達にLちゃんという子がいるんだけど」と妹は言う。とても派手で目立つ娘なのだが、そのLちゃんと会っても絶対に褒め言葉を口にしないでくれ、というのだ。
 奇妙な忠告である。なんのこっちゃ、と最初は思ったが、話を聞いているうちに概要は理解できた。
 Lちゃんは自分の容姿に自信を持っており、なおかつ自慢屋なのだという。外見を褒められたことを、仲間内で得意気に話してばかりいるそうなのだ。
 だが、それを嬉しそうに自慢したらバカみたいに見えることはLちゃんもわかっている。
 でも話したい。自分に向けられた賛辞を、自分の中だけで留めておきたくない。仲間たちにも知って欲しい。
 そこで、「○○さんたらね、あたしにこんなことを言ったのよ」と、「おかしいでしょ」もしくは「困ってるのよ」みたいな辟易の口調で皆に話すのだという。
 妹はこれまでに、それをさんざん聞かされてきた。それで今回、自分の兄が社交辞令としてしゃあしゃあと調子のいい言葉を口にし、Lちゃんの自慢のネタとして吹聴されてしまうのを恐れたのである。
 果たして結婚式当日、Lちゃんはきらびやかな青いラメのチャイナドレスを着てきた。当たり前のように花嫁よりも目立とうとするのがすごい。  筆者は手招きをされてLちゃんのテーブルに行って話したが、正直に言って「手招き」で人を呼ぶというのはどうだろう、と思った。親しくない者同士の場合、失礼ではないか。
 でも、妹の結婚式に来てくれているのだから、むげにはできない。テーブルまで行って話した。名刺交換をして、Lちゃんは後で手紙をくれたが、その返事をどう書くかで筆者は迷った。
 うかつなことを書いてしまえば、それが自慢のネタになり、「物的証拠」として妹の友達に見せられるかもしれない。そう考えると社交辞令も控えなければならず、用心した挙げ句、結局は返事を書かなかった。
 前回のU子もそうだが、「人を自慢の材料にするな」と思う。
 Lちゃんは、友達を容姿で選ぶそうだ。軽んじている娘とはつき合わない。また、自分より美しい娘とは決して連れないらしい。その「中ぐらい」の引き立て役という条件を満たしているのが、妹とその仲間たちだったというなら、なんだか身も蓋もない話である。
 その後、「Lちゃん、もしかしたら浮気しているかも」という話を妹から聞いた。
 Lちゃんは既婚であり、夫に対して、妹は行動のつじつまを合わせるように頼まれていたのだが、言ってることが不審で、どうも秘密の浮気のアリバイ作りに協力をさせられている可能性があるというのだ。
 人には情熱の向けどころがある。常に注目を浴びなければ気が済まないなら、Lちゃんは芸能界に進むべきだった。そうでないと、周りが大変なのだ。




2021.4.29

第四百四十四回 U子の場合 

「今、手首を切ったの」  と言って、夜中の1時頃に電話をかけてくる女友達がいた。
 かりに名前を「U子」としておく。今回の内容はグレーゾーンかもしれない。断っておくが、ずっと前の話である。最後にU子と会ってからもう15年ぐらいになるはずだ。
 さて、どうしたものだろうか、このような電話を受けた場合。
 冷たいようだが、筆者は放っておいた。というのもU子は自傷行為の常習者で、深夜の電話も一回や二回ではなかったからだ。
 リストカットをする女性なら、筆者は学生時代にも知っていた。手首を切るといっても、死なないように重要な血管の位置を外して切っているのだから、とんでもなくはた迷惑な「かまってちゃん」なのである。
 U子も、電話を受けた筆者が深夜にタクシーを飛ばして駆けつけることを期待していたようだが、それは絶対に嫌だった。もし一回でも応じれば、くり返されることは目に見えているし、第一バカバカしい。
 後日、筆者はU子のマンションで、深夜の2時頃に、どす黒い一色の絵の具で描かれた不気味な絵を見せられたことがある。殴り描きのような線が乱雑に交差し合っている抽象画で、一見してゾッとするような、異様な気配に満ちていた。
   その絵は、なんとU子が手首を切って流した血液で描いたものだった!
 まず「そんなこと自体するなよ」と言いたい。しかもスケッチブックの片隅には、血染めの胎児が転がっていた。
 U子には堕胎の経験が三度もあったのだ。そんな気色の悪いものを、草木も眠る丑三つ時に見せられた日にゃあ……。ホラーだ、ホラーのシチュエーションだ。
 U子は文芸が趣味で、せっせと純文学風の小説を書いていた。それをまとめた冊子を作るというので「編集作業を手伝ってほしい」と頼まれたことがある。
 それはちょうど筆者の妹が結婚する日だったので、断るしかなかった。
「そうか、来てくれないか」とU子は何度も言っていたが、その日が妹の結婚式に当たっていることは彼女も知っているはずだった。話していて、どうも噛み合わない。知っていてわざと同じに日にしたようなのである。
 やがて、その理由がわかった。共通の仲間に吹聴するため……「氏村はね、妹の結婚式があったのに、あたしの頼みを聞いて作業を手伝ってくれたのよ」と、ただその自慢の一言を口にするためだけに、日取りを合わせたのだ。
 心の病というと、こちらも慎重な対応を要するが、彼女のやっていることは「悲劇じゃなくて喜劇」であり、筆者もある日とうとう「茶番につき合わせるな」と言ったことがある。悲劇のヒロイン願望は10代でないと似合わない、とも言っただろうか。
 この頃、心の病を持つという人が、筆者の周囲に複数いた。世の中には本当に苦しんでいる人も大勢いらっしゃるが、筆者の周辺にいた数人は、なかばパフォーマンスだった。  ちなみにU子が今どうしているかは、もちろん知らない。




2021.4.22

第四百四十三回 可哀想だけど、少し可笑しい 

 何年か前のある日、ある駅のプラットホームで見た光景。
 前日まで上りだったエスカレーターが、その日を境に下りに変わった。そのことは告示されていたが、習慣とはえらいもので、足を踏み入れようとする人が何人かいた。
 そして実際に乗ってしまったオヤジがいたのだ。不思議なことにエスカレーターの中程まで上がり、その位置で足踏みをつづけて、先へは進んでいない。
 いつもとちがってエスカレーターが下りになったので、階段は混み合っており、その遅々とした進みを待っている人の中からクスクスと笑いが起こった。
 エスカレーターに一人だけいるオヤジが、まだ気づかずに延々と足踏みをつづけていたのである。笑いまじりに「誰か教えてやれよ」という声が聞こえた。
 あれはどういうことだったのだろう、勢いでエスカレーターの中程まで上がったものの、それから歩調をゆるめたのか、同じところで反復運動くり返しているというのは。
(あれ、おかしいな、歩いているのに先に進まないぞ)
 ぐらいは感じたかもしれないが、一種の思考停止状態だったのだろう。
 まったく話は変わるが、筆者のサラリーマン時代の同期だったO君は、ゆきずりの女子大生に殴られるという稀有の経験をしている。
 学生時代の夕方、銭湯から出たO君は、店先の長椅子に腰かけて牛乳を飲んでいた。そこへやはり銭湯から出てきた近くの体育大学の女子大生たちが通りかかった。
 で、O君が思わず「ごっついなあ」と正直な感想をつぶやいてしまったところ、彼女たちの一人に「悪かったわね」と言って平手打ちをされたという。
 筆者はこの話を聞いた時、笑ってしまった。O君には可哀想だが、一抹の可笑しさがあるのは「悪かったわね」のひと言だ。なんというか、ごついことを「認めている」ではないか。
 それと、これは筆者が中学生の時だが、学校の帰りに道路沿いの歩道でカナヘビを見つけたことがある。友達と一緒だった。カナヘビは歩道から道路に出て、チョロ、チョロ、と断続的に道を横切ろうとしていた。
 遠くまで見通せる道路で、その時、遠くからポルシェが走ってくるのが見えた。
 カナヘビは、チョロ、チョロ、と道路の中央へと向かって進んでいく。ポルシェは思いのほか速い速度でぐんぐん近づいてくる。
 あ、このままいくと轢かれるかもしれない、と思って見ていたら、両者のタイミングがぴったりと一致して、ものの見事に轢かれてしまった。
 ヒュン、とポルシェが風のように通過した後、筆者と友達はカナヘビの死骸に駆け寄った。
 カナヘビは平面化していた。ぺったんこ。しかも、二つ折りだった。奇妙なことに体の中程で折れ曲がっていたのである。
 これはどういうことだろう、と分析してみたのだが、おそらくカナヘビはタイヤと接触する瞬間、「のけぞった」のではないだろうか。でないと、このようにはならない。
 迫ってくる巨大なタイヤからのがれようと、一瞬、反射的に身を反らせたところを、ポルシェが通過していった結果なのだろう。もちろん可哀想である。でも、ちょっと可笑しい。




2021.4.15

第四百四十二回 校内暴力の時代だった 

 暴力の時代などというと『北斗の拳』みたいだが、かつて中学生や高校生の校内暴力が全国的な社会問題になっていた時代がある。
 筆者が入学した中学校はとくに最低だった。どのぐらい最低かというと、中体連(中学体育連合)とかで、西宮の公立中学校が甲子園球場に集まって組体操をするのだが、それに参加できなかったほどだ。毎年かならず他校の生徒にケンカを吹っかけて問題を起こすため、他の学校が一丸となって「おたくの学校が出るなら、私たちは参加しません」とボイコットを表明したのである。恥もいいところだろう。
「授業中、不良が黒板にナイフを投げた」
「スケ番グループが校舎裏で、一人の女子生徒のスカートをかみそりで切った」
 といった不穏なニュースも茶飯事だった。
 前にも書いたかもしれないが、授業中にひとりのヤンキーがいきなりキレてしまい、雄叫びをあげながら椅子を振りかざして、教室の窓ガラスを全部叩き割ったこともあった。
 教師はそのとき硬直したまま、「お、おい……やめろよ」とつぶやくだけだった。  一年生の時で、みんな唖然としていた。筆者は窓ガラスを割ったヤンキーよりも、むしろ不甲斐ない教師に対して納得できないものを感じた。
 騒がしい教室内で、「皆さん、どうか静かにしてください。松田聖子のマネをするから静かにしてください」と頼む教師もいた。
 筆者は不良ではなかったが、二年生になったときには、授業中に平気で教室を出て行くようになっていた。
喉が渇いたからで、単に水道のある場所まで水を飲みに行くためである。
 教師に断りを入れるわけでもなく、見つからないようにこっそりと身をかがめて教室のうしろから出ていくわけでもなく、我が家の台所を横切るように、ごく普通に席を立っていた。
 そしたら、水飲み場へ行くまでに、上級生のヤンキーが教師二人を相手に暴れているのを見かけた。そんなことが日常だったのだ。荒廃した教育現場の中でひとつ確信したのは、
「生徒は、弱い先生にはついていかない」
 という不動の事実である。そしてそのことで不幸になるのは、生徒本人なのだ。毅然として、いけないことはいけないと言い、ゆるがずに導くのは大人の役目なのである。
 2年生の一学期、まだ大学を出たばかりの新任の先生が、荒れているクラスの現状を嘆き、「僕のどこがいけないのか教えてください」と言ってアンケートを採ったことがある。
 筆者はその用紙に「このように生徒にきくところがいけない」と書いた。先生なら力強く引っ張っていけ、と思った。
 同じく2年生の一学期に、担任の教師が「好きな言葉は何か」というアンケートをとった。
 筆者は「普通」と書いて提出した。ふざけたのではなく、本気でそう思っていた。
 日々の生活環境が荒廃していること、暴力が日常的に存在することは、多感な年齢の子どもに影響を与えないわけがない。筆者はもっとアカデミックな環境で過ごしたかった。
 異常な環境に身を置いていると、「普通が一番」と思ったのだ。




2021.4.8

第四百四十一回 スケ番登場 

「スケ番」という言葉は死語だろうか。まず「番長」自体がいるかどうかわからないが、筆者らの中学生時代には「ツッパリ」という言葉があり、番長もスケ番もバリバリに健在だった。
 中学校の3年間というのは、体も心も一番成長し、それだけに顕著な差が認められる期間である。小学校からあがったばかりの新1年生にとって、髪を染めてパーマをあて、長いスカートをひきずって校内を闊歩しているスケ番たちは、上級生というより大人の女性に見えた。
 ある日、スケ番グループが中庭に集まり、給食に出た牛乳を校舎の壁にぶつけて割っているのを見た。余りにしては数が多すぎるので、給食室からケースごと新しい牛乳を奪ってきたのかもしれない。とにかく、その牛乳瓶を校舎の壁に叩きつけては爆笑しているのだ。
 コンクリートの校舎は、牛乳を浴びると、一瞬だけパッと白く染まる。そしてたちまち成分を吸収するかのようにスーッと白さが消えていき、もとの殺風景な灰色の壁に戻る。
 スケ番たちはそれが面白いのか、あるいは破壊行為そのものを楽しんでいるのか、牛乳瓶を壁に投げつけ、次々に割ってはゲラゲラ笑っているのである。
 春4月に目撃したその光景は、入学したばかりの筆者にとって大きな衝撃だった。よくもまあ、最低の環境にいたものだと思う。
 彼女たちは怖い存在だったが、一方で、なんとなく軽んじてしまう相手でもあった。だいたい(学園ドラマでも)スケ番というのは、美少女でなければサマにならないのである。
 中学校生活にも慣れだした5月頃だったか、筆者と友達は彼女たちをからかった。スケ番グループが歩いている前に二人で飛び出し、
「うわあ、スケ番やあ!」
 と、指さして逃げたのである。
「おまえら、ちょう来い」
 と、うしろからスケ番の声が聞こえた。じつに悠長な言い方で、まったく本気で相手にされていないことがわかった。
 だが、その翌日、美術の授業中のことだった。スケ番グループが教室に入ってきたのだ。
 何ごとかと思って、みんな固唾を?んでいた。いきなり勝手に入ってきたのである。美術の先生は、そのスケ番グループの担任だったが、1年生の授業中に用などないはずだ。
(しまった……復讐にきた!)
 昨日のイタズラの報復にきたとしか思えなかった。後先のことを考えずに面白がってあんなことをしてしまったが、顔を覚えられていたのだ。外に連れ出されるかもしれない。
 筆者はずっと顔を下に向けていたが、スケ番グループはみんなが絵を描いている机を「ふむふむ」という感じで見て回り、一巡して美術教室から出て行った。授業をエスケープして、こうやって各教室を巡回しているらしい。
 1年生だったみんなは「今のは何だったんだ」と呆気にとられたように沈黙していた。
 スケ番たちが入ってきてから終始無言だった美術教師が、「ほんとは、いい子たちなんやで」と、ぽつんと言った。
 どこらへんが「いい子」なのかわからなかった。




2021.4.1

第四百四十回 吾々は礼節を重んじ…… 

 時々、スーパーやデパートの出入り口などで、先に通った人がドアを押さえてくれることがある。見知らぬ人である。あとにつづく者のために、ドアが閉まらないよう手を添えてくれるのだ。そんな経験はないだろうか。
 もちろん「すみません、ありがとうございます」とお礼を言うのは当然のこと。このような見知らぬ人の親切は、他の国でもよくあることなのだろうか。
 大人だけではない。エレベーターでドアを押さえてくれる女子高生もいた。育ちのいい子なのだろう。当然、お礼を言って降りた。
 その一方、スーパーで買い物していた時のことである。ビールを買おうとしたが、売り場の前に高校生の野球部員たちがたむろしており、通りづらくて、買うのに邪魔だった。
「ごめんよ、ちょっと通してね。はい、ごめんよ」
 と言って通ったのだが、彼らは立ち話に夢中で、動こうともしない。まわりが見えていないのだ。しょうがないなあ、と筆者は思った。
 だが、ほぼ一週間後に、まったく同じシチュエーションに出会ったのだ。
 同じスーパーのビール売り場の前。先週見かけたのと同じ連中だった。どうやら彼らは部活帰りに、その場所でたむろするのが習慣になっていたらしい。
 先に言っておくが、筆者は怒ったわけではない。ただ、ちょっとしたイタズラを思いついた。で、わざとこんな演技をした。
「おう、ビール取りてえんだよ。どきな」
 と声を変えて凄み、強引に割り込んだのである。紳士的とは言えない振る舞いであり、日ごろの筆者の温厚なイメージとは異なるかもしれないが、あくまでも演技である。
 さて、彼らがどうしたかというと……。
「すみませんでした!」「すみませんでした!」「すみませんでした!」
 全員が道をあけて、頭を下げたのだ。
 彼らは筆者を覚えていないようだった。くり返すが、怒ったのではない。大人のイタズラ心であり、ちょっとした実験でもあった。
 それにしても、普通は逆だろう。丁寧に言っている時には丁寧に応じるべきであり、悪い相手にはそれなりの対し方というものがあるはずではないか。
 彼らは、まあ言ってみればサーカスの動物のようなもので、鞭が怖いだけなのだ。相手の言動から乱暴そうな大人だと思って、怒らせないよう保身に努めたにすぎない。
 先日、電車の中で、降りる時にスマホを落とした女性がいた。ほかの乗客がそれを拾って渡したのに、彼女は礼の言葉を口にせず、当たり前のように受け取っていた。
 拾ってあげた人は純粋な親切心からだろう。べつにお礼の言葉や見返りを求めているわけではないと思うが、それに対してひと言もないとは何様のつもりだろう。
 ふと見ると、その女性は切符も落としていた。筆者がそれに気づいた時、女性はさっさとホームに降りて、ドアが閉まった。改札口の手前で彼女は困ったことだろう。
 もし知らせる間があったら、筆者は知らせただろうか。自分でもわからない。




2021.3.25

第四百三十九回 さよなら物流センター 

 物流センターでの残業は、内勤のそれよりもこたえた。物品を集めたり、移転後は整理したりするような軽作業を、毎日毎日、朝から晩まで12時間以上も延々とつづけていると、さすがに飽きてくるのである。
 正論は筆者の方にあったが、会社としては面倒な社員にいてもらっては困る。ありていにいえばリストラだが、この場合、みずから呼び寄せたに等しい結果ともいえる。
 いや、レポート自体は重役の要請で書いたのだ。社内報の記事で筆が立つと思われていたので、「向こうでの経験を面白く書いてくれよ」と頼まれた。で、言われたとおりに書いた。
 レポートを提出した翌日の朝、顔を合わせると、重役は筆者にぺこりと会釈した。丁重に扱ってくれたのではない。それまでは仲間だと思っていたのが、おそらくは得体の知れない存在に思えて、急によそよそしくなったのだろう。この重役はけっして嫌な人ではなかったが。
 やがて専務にも呼び出され、「会社に対して、どういうつもりでこんなことを書いたのだ」ときかれた。どういうつもりも何も、事実をありのままに書いただけなので答えようがなかった。
 そして翌年の人事異動で葛西の物流センターへ異動になり、それに伴い引っ越しもしなければならなくなった。一人暮らしの小さな部屋だったが、帰宅すれば部屋の中だけは会社に干渉されない自分のスペースだと思っていた。しかし、引っ越しで荷物が運び出されるのを見て、サラリーマンは生活全般に会社の力が及んでいるという当たり前のことを実感した。
 いちおう新卒採用で就職し、本社勤務だったのだが、異動してみると自分のデスクがなくて名刺もない。それに倉庫内作業をしている中で二十代の社員は筆者だけだった。
 ちなみに、関西の物流センターの人たちは、それまでどおりの生活を続けていた。あれほど不平不満を口にしていたのに、そのことで何もアクションを起こさず、現状を変えようと思い立つこともなく、元の生活に戻っていた。それが普通であり、会社の構造を掴めていないほど青かったのは筆者だけだったのだ。授業料と呼ぶには大きな代償だった。
 それからほかの事情も生じて、翌年の1月に筆者は会社を辞めることになった。
 辞める直前の早朝、外で軍手をはめて作業し終えた筆者は、火を焚いたドラム缶(屋外労働者にとって冬の朝の風物詩である)で暖を取りながら、運送会社の人と話していた。
 出入りしていた運送会社のオヤッサンは、やや離れたところにいる同じ会社の若い女性を指さし、「おい、あの娘どう思う?」と筆者にきいてきた。その運送会社の鮮やかなビニールジャンパーを着てブルージーンズ姿の彼女は色白で黒髪が長く、なかなかの美形だった。が、筆者は照れもあって「ジーパンがピチピチですね」と答えた。
 その瞬間、オヤッサンは間髪をおかず「おーい、ジーパンがピチピチだってよお!」とその娘に向かって叫んだのだ。彼女はこっちを振り向いた。今から思えば、筆者は唯一の二十代だったので、オヤッサンに可愛がられていたのだろうが、このときは本気で腹が立った。
 物流センターの控え室の窓からは、大きな高架式の道路が見えた。最後に勤務した日、就業時間を終えてから、夕闇に包まれた空と、道路沿いに等間隔に立つオレンジ色の照明と、連なる車のライトを眺め、この景色を見ることはもうないのだなと思い、その通りになった。
 千葉からまた引っ越して、国分寺道場に戻ったのは、その後のことだった。




2021.3.8

第四百三十八回 秋になっても物流センター 

 ちなみに筆者はフォークリフトの免許を持っていなかった。もう時効だし、会社の命令でやっていたのだから明かしていいだろうが、職場の人に教えてもらって無免許で操縦していた。
 一度、転倒しそうになったことがある。旧センターの入口が傾斜になっていて、そこを急旋回した弾みで片側が浮きあがったのだ。ヒヤッとした。もしひっくり返っていたら大問題になっていただろう。
 物流センターも体を使った労働作業なので、2時間おきに休憩があった。そんなとき、ヤクルトの訪問販売にくるおばちゃんがいて、みんなでそれを買って飲みながら、しばらくそのおばちゃんと雑談をするというのが日課になっていた。
 不思議なもので、筆者などは甘ったるいヤクルトの味が好きではないし、そのおばちゃんも特別に美人ではなく、相当にケバケバしい厚化粧の人だったが、ほかに娯楽のない作業の合間だったせいか、毎日かならずヤクルトを買って雑談に混じっていたのだ。
 休憩時間、パレットに腰を下ろして風に涼んでいると、倉庫の床を砂粒のような黒っぽい微粒子がザーッと風に巻かれていくのが見えた。最初は何だろうと思ったが、驚いたことにそれは酷使されるフォークリフトのタイヤが摩耗して削られたゴムの滓だった。
 風呂で体を洗うと、洗面器のお湯が黒くなった。ぱっと見には気づかないが体にも付着していたらしい。マスクなどしていなかったし、吸い込んでいたら健康にいいわけがない。
 健康といえば、8月から慣れない作業を始めたので、暑い中で食欲不振になった。お盆で実家に帰省した時、法事の会食の席でとても疲労していたことを覚えている。その疲労が回復した頃、今度は新しい物流センターに職場を変え、搬入と整理に明けくれることになった。
 そして9月、信じがたい無計画な移転の結果、新センターは極端な人手不足に陥ったのである。本社からも内勤の人が回され、関東の物流センターから救援メンバーが増員、さらにアルバイトを大量雇用したが、それでも追いつかなくなった。  定時では5時の退社だが、毎日9時すぎまで残業だった。残業代は出ない。ただ働きで、しかも晩めしぬき。現在なら(いや当時でも)ありえないだろう。晩めしは仕事が終わってから各自で食ってくれということだが、食事をさせないまま9時まで拘束するというのは、あきらかに現代の感覚ではない。
 当然、みんなから不満が噴出し、夜の食事代としてひとり120円が支給されることになった。が、120円って……ジュース代だろう。
 筆者はこのころ、カーテンのない社宅を出て、西宮の実家から通勤していた。晩めしは帰宅して10時頃に食べた。筆者の人生で実家から仕事に通ったのは、この期間だけである。
 10月、本社に戻ってから、重役に「向こうでの経験をレポートにしてくれ」と言われたので、筆者はそれを実行した。どんな状況だったかを赤裸々に書いて提出した。もう洗いざらい書いた。違法であることまで書いた。勢いあまって文字数14400字、原稿用紙にして36枚、このブログの9回分におよぶ分量なので、報告レポートとしては膨大である。
 すると、専務に呼び出され、次の人事異動で本社勤務から外れ、近郊の物流センターに異動になった。早い話が、飛ばされたのである。




2021.3.11

第四百三十七回 物流センターの長い夏 

 脱サラの話を少し前に書いたが、筆者の場合、最後にいた部署は物流センターだった。
 物流センターというのは、メーカーが製造した商品を保管し、出荷するところである。がっちりとしたコンクリート製の巨大な建物で、在庫に余裕を持たせるために内部は広大、フォークリフトが動き回れるように天井も高い。そのため都市部ではなく近隣の県にあることが多い。
 ある年、関西の物流センターを移転し、大規模に改造するというので、その助っ人として筆者は地方へ出向することになった。本社勤務だったのだが、現場での仕事を覚える機会でもあるという。移動したのは7月31日で、それから約2カ月、夏のあいだを向こうで過ごした。
 社命で滞在するのだから、住居は会社が用意してくれた。これがしかしボロボロのマンションで、築年数は見当もつかない。贅沢は望まないが、カーテンがないのには困った。部屋の中が外から丸見えなのである。
 それに部屋自体、長いあいだ使われていなかったらしく、水道の蛇口をひねると、コーラのような茶色の水が出た。なんてことか、水道管の中が錆びついていたのだ。
 ひどい住居もあったものである。ムカッときた。というのは嘘で、若い頃というのは、あまり気にしない。こんなもんだろうと思って受け入れていた。
 筆者も現在より衛生面で鈍感だったことは確かだ。数分間水を出しっぱなしにしておくという知恵もなく、錆の臭いのする水をかまわず飲み、味噌汁まで作った。どうかしている。
 救いようのないボロマンションだが、職場から近いことだけは良かった。勤務地まで徒歩10分ほどなのだ。歩いて通えるなんて東京の住宅事情では考えられない。
 電気代やガス代などの光熱費と電話代は、もちろん会社持ちだったので、エアコンのタイマーを帰宅する一時間前にセットした。真夏の暑い中、倉庫の中で作業して、帰ったら部屋の中は冷えているようにしておいた。それに夜は、関西と東京との遠距離で、何度も長電話をした。錆の混じった水を飲まされているのだから、これぐらい遠慮はいらない。
 仕事は意外と面白かった。発注のあった商品を集めて、日に2回、出入りの運送会社の便にのせる。やり出すと、これが意外と飽きなかった。それにフォークリフトを操縦できた。
 人力ではとうてい持ちあげられないほど商品を山積みしたパレットでも、フォークリフトなら運べる。パレットの底に、長く伸びた二本の鉄の爪を差しこむのだが、その位置を正確に測ることに情熱を燃やした。筆者も二十代だった。
 が、二十代の若者が、知り合いのいない環境で過ごすのだから、暇を持てあましてしまう。単身赴任とはこういうものだろうかと思った。いったん東京に戻ったこともあったが、ほとんどの土日は大阪や神戸の街に出て、映画を観まくった。よってこの年の夏に上映していた映画は、かなり観ている。
 映画だけでなく、テレビ番組もよく観た。在宅時に放送されているものは片っ端から観た。『セーラームーンなんとか』まで観た。そんな中『必殺仕業人』が放送されていたのは感涙ものだった。職場の人とも仲良くなり、仕事が終わってから飲みに行くようになった。
 日の明るいうちに定時で帰れるのだから、本社勤務から考えると夢のようだ。しかし早く帰れば、それだけ夜の時間が長いということでもあった。




2021.3.4

第四百三十六回 冬のアイス 

『鬼滅の刃』を11巻まで、つまり遊郭編まで読んだ。
 前に4巻まで買っていたのだが、去年の劇場版の盛り上がりで品切れ状態になり、手に入らなくなってしまった。で、2月にふと書店で見かけて、5巻以降を購入。時間があいたときを狙って読んでいるのだが、これが面白い。
 ストーリーが緻密である。連載漫画には唐突な展開も珍しくないが、16ページの漫画を週刊連載すること自体、神業のようなもなので、少しばかり強引になるのも無理はないだろう。が、『鬼滅』は描き下ろしではないかと思うほど先の先まで練り込まれている。作者には武道の経験(剣道か伝統の空手か)があるのではないかとも思う。
 長々と続かず、23巻できっちり完結しているのもありがたい。最終巻の表紙では禰豆子の口から青竹が外れているので、ハッピーエンドが予想されるが、その前に炭治郎は柱になるのだろうか。無惨のような強敵に、どうやって勝つのだろうか。
 ……そんな話の前に、前回このブログを更新しなかったことについて。
 いや、いちおうは書いたのである。筆者の特殊な経験を。
 だが、直前になって提出を控えた。やはり客観視して危ない内容ではないかと迷った結果で、つまるところ安全策を採ったにすぎない。ようするに自分のわがままである。
 では、無難な話題はなにかというと、まず食べもののことだろう(それと必殺)。
 今日、久々にロッテの「雪見だいふく」を口にして思ったのだ。これはいったい、どなた様のアイデアだろうか、と。
 西洋の発明であるバニラアイスを、日本の大福の皮で包むことを思いついた人は、ただ者ではないな。こんなにすばらしく美味しいものになるとは。
 同じことは「アイスもなか」にもいえるし、もっというなら「あんパン」もそうだが、とにかく食品における和洋折衷の大成功例といえる。
 雪見だいふくは、名称もいい。また筆者が初めて冬にアイスを買った商品でもある。伊藤つかさがCMに出ていて、筆者が住んでいた田舎町の小さなスーパーの入口にも、つかさちゃんのポスターが貼られていた(シャンプーのポスターだったかもしれない)。
 とにかく筆者は、そのスーパーへ買いにいった。
 冬にアイスを買うことなど、現在なら珍しくもない。とくにハーゲンダッツなどの高級品は冬こそ似合うように思える。しかし、当時はそうではなかった気がする。筆者は初めてだったし、アイスの入れ物の内部にはボワボワした白い綿のような氷(昔の冷凍庫に発生したやつ)がこびりついていたところをみても、あまり買われていたとは思えない。
 レジに持っていくと、
「はァ、あんた、冬なのにアイス買うの」
 とレジ係のおばちゃんが、袋に入れながら意外そうに言った。まったくもって余計なお世話だが、田舎のおばちゃんは、こういうことを言うのである。
「冬なのにアイス売ってるの」
 と、中学生だった筆者は答えた。これはこれで生意気なオスガキだと思われたことだろう。
 



2021.2.18

第四百三十五回 すっかり忘れてたお話 

 大人には仕事がある。仕事として報酬を得るからには責任が伴う。好きでやっている仕事でも、この点が趣味とは一線を画すところである。自分だけの気まぐれでは済まない。責任を背負って、ついあくせくとした日々を送ってしまう。
 渡辺典子が歌う角川映画版『少年ケニヤ』の主題歌で「大人たち、思い出してね、すっかり忘れてたお話」という歌詞があるが、たしかに子どものころに熱愛していたこの作品のことを、筆者もすっかり忘れていた。
 もっとも、仕事中心の日々で、好きなフィクションのことを常に考えているわけにもいかない(といいつつ、必殺のことはけっこう考えている)。
 ちなみに映画版『少年ケニヤ』は、去年お亡くなりになった大林宣彦が監督である。
 ワタルは最初、ひ弱な少年で、病気で倒れているゼガに薬草を採ってくることを頼まれる。その草は、滝が落ちる崖っぷちの危険なところにあり、勇気を出してそれを採って帰ってきたことで、ゼガに性根を見込まれる。そのあたりの場面も描かれていたし、原作の絵を大事にしてくれているところも嬉しかった。
 主題歌は宇崎竜童の作曲でノリがいい。演出に不満がまったくないわけではないが、そのそもあの壮大な冒険物語を2時間枠に凝縮することは不可能だし、原作者の山川惣治先生が特別出演していることも考えると、ソフトを買ってもいいかと思えるほどだ。
 大河作品にふさわしく、映画も原作も、みんな幸せになって終わる。長い旅のあいだにとっくに戦争が終わっていることを知り、ワタルは晴れて家族と再会する。幼いころ誘拐されてきたケートも、探していたイギリス人の両親と無事に出会い、祖国に帰っていく。ゼガはマサイ族を若酋長の息子にまかせて悠々自適の生活に入る。申し分のないハッピーエンドである。
 だが……筆者は、その後のワタルのことが気になった。
 果たして彼は幸せになったのだろうか?
 日本に帰ったワタルは、ごく普通に中学生としての生活を送ることになるだろう。体育の時間はもちろんスーパースターだ。まじめでやさしく、友達も多くて女子にもモテるだろう。
 充実した学校生活を送り、委員長などもこなして、やがてはどこかの会社に就職し、父親と同じように商社マンになるのかもしれない。いずれにしても立派な社会人になるだろうが、原作の熱心だった読者としては、そんな生活が彼には似合わないと思えて仕方がなかった。
 せわしない日常の中で、ワタルはアフリカで過ごした日々を思い出すことはないだろうか?
 地下鉄の満員電車にゆられている途中、ふと、マサイ族の酋長を師とし、豹の毛皮をまとった金髪碧眼の美少女をつれて旅をし、大蛇や巨象を友として広大なサバンナを駆け巡っていた日々が、胸中に去来することはないだろうか。
 普通の小学生だった筆者が、学校生活を送りながら、ときを忘れて読んだお話をすっかり忘れていたように、ワタルもそうなってしまわないだろうか。
 だとしたら、あのめくるめく冒険は何だったのだろう。
 しかしケニヤに「還った」ところで、ふたたびワタルの活躍する場があるとはかぎらない。だからこそ「少年」ケニヤであり、かの大地は遠い想い出。……きっとそれでいいのだ。




2021.2.12

第四百三十四回 ダーナとナンター 

 引きつづき『少年ケニヤ』の話を。
 この作品、もとは新聞連載だったというから驚きで、ブームの最盛期は筆者たちの世代よりもかなり前だったらしい。故郷の書店では全10巻の大判サイズの本が売られつづけていたのだが、転校先ではとんと見かけなかった。
 子ども時代のある日、筆者は自転車で書店に出かけて、この作品の6巻を買い、帰る途中に通りかかった公園でみんなが遊んでいるのを見かけて、飛び入りで参加した。
 そのとき、友達の一人が、筆者の自転車のカゴに入っている『少年ケニヤ』を見て、「これ、ぼくも読んだ」と言った。読んでいたのは彼だけで、あとの子は知らなかった。よって話題にできる相手はほとんどなく、筆者は自分ひとりの楽しみとして熱中していたのである。
 同好の仲間がいるのも楽しいが、真に夢中になっていると、ひとりでも十分だった。この「ひとりでも十分」という楽しさは、また格別のものである。
 なにが面白いかって、もう全編、めくるめく冒険。作画とあるように文字だけではなく、すべての回が絵とセットになっており、その絵がまた精緻で惹きつけられた。
 次々に襲いくる猛獣の中には、巨大なカエルやオオサンショウウオ、吸血の蔦植物や吸血コウモリ、はては恐竜にまでいたり、1ページたりとも飽きさせないのである。
 朝食を取ってから、学校に行く直前まで読んでいて、「いいところなのに」と思いながら本を閉じて登校しなければいけなかったことを、今でも覚えている。
 主人公のワタルは猛獣にも臆さず、身体能力に長けていてとても強いのだが、彼の師でもあるマサイ族の老人ゼガは、それに輪を掛けてめちゃくちゃ強い。だが、そんなふたりをもってしても、悪い部族に囲まれると、多勢に無勢でどうにもならないときがある。
 そんなとき、巨象ナンターが助けにきてくれるのだ。ナンターはアフリカ象の群れのリーダーで、底なし沼を渡ろうとしたところ、ワタルが危険を教え、それ以来、強力な味方になった。
 が、ナンターは自分の群れを率いなければならないし、いつもいっしょに行動しているわけではない。ゼガと二人でも絶体絶命という、もうどうしようもない最終局面で登場するのが、大蛇ダーナなのである。
 ダーナは全長数十メートルもあるニシキヘビで、全編を通じて最強の生物だ。はてはTレックスとも戦う。なんでTレックスがいるのかというと、地中の世界に落ちるとそこはジュラ紀のままで、Tレックスがケートを気に入ってしまい(「キングコング症候群」とでも名づけようか)地上まで追ってきたのである。
 今から思うと、原住民の悪役が残酷で、けっこう人が死んでいるし、猛獣なども現在なら保護しなければならない稀少な野生動物になっている。
 しかし、破天荒な冒険物語が、子どもにとって面白くないわけがない。筆者の場合、最初は親が買ってくれていたのだが、そのうち自分のこづかいで買うとみずから主張した。
 殊勝な心がけではなく、それは所有欲からであった。『少年ケニヤ』に関することはすべて自分が手中にしたいという作品愛に発展していたのである。それほどまで子どもに思わせる物語、現在でも発売されていていいと思うのだが。




2021.2.4

第四百三十三回 口うつしにメルヘンいらない 

本が好きになるかどうかは、単純至極、面白い本に出会ったかどうかだと思う。早いうちに面白い本に出会えれば、本好きの子どもになるというように。
 絵入りでもいい。作画・山川惣治先生による『少年ケニヤ』。小学生のころに、この血湧き肉躍る物語に出会えたことを、筆者は幸運だと感じている。
 題名どおり、舞台はアフリカのケニヤ(現ケニア共和国)で、主人公の少年は村上ワタル。物語は1941年の12月から始まる。すなわち、日本が第二次世界大戦に加わったことで、当地に駐留していた村上父子の運命も翻弄されていくのである。
 当時のケニヤはイギリス領だったので、現地人のガイドたちが、英米と交戦することになった日本人との関わりを恐れ、村上親子はケニヤに置き去りにされてしまうのだ。
 さらに、その直後、思わぬサイの襲撃を受けてワタルは父と離ればなれになってしまい、父を探してアフリカを旅するというのが、物語の大まかなすじといえる。
 ワタルは心優しいふつうの少年だったが、マサイ族の大酋長ゼガと知り合い、ゼガに鍛えられてたくましく成長していく。
 ある日、ワタルは豹の毛皮をまとった碧眼金髪の美少女ケートと出会う。イギリス人だが、幼いころに誘拐され、悪い呪術師に「白い神様」として利用されてきたケートは、ワタルたちに助け出され、そこから最終巻まで3人で旅をつづけていく。
 ちなみに、この作品、角川映画になっている。筆者が小学生の頃だったら、親にたのみこんで映画館に連れていってもらっただろうが、もう部活で忙しい年齢になっていた。
 ただテレビCMなどで、渡辺典子が「口うつしにメルヘンください」と歌う主題歌と共に、横たわったケートに、ワタルが上からチューしようとしているカットが流れたのを見ると、それだけで「ちがう、ちがう!」と思った。この二人はそんなんじゃないのだ。
 映画ではケートの肢体が女っぽく描かれ、偶然組み敷く体勢になったワタルがドキッとする場面がある。原作では12歳から14歳ぐらいの設定で、まあ言ってしまえば足手まといの役なのだが、彼女がいなければ物語は殺伐とするだろう。そしてワタルとケートは兄と妹のような関係だった。原作ファンとしては、あまり彼らを「男女の仲」として描かないで欲しいのだ。
 ケートをわざわざスコットランド人という設定に変える必要もない。日本とイギリスが戦争をしているさなかに、日本人(ワタル)とイギリス人(ケート)とアフリカ人(ゼガ)が助け合って旅を続ける物語であり、そこに原作者のメッセージが隠されていると思うのだが。
 ところで、渡辺典子が歌う主題歌のサビの部分「口うつしにメルヘンください」というところを、筆者が学校で歌っていると、それを聞いた友達がなにげなく、
「誰がやるかあ」
 と言った。
「んなもん、いるかあ」
 と筆者は返した。
 男の友達から「口うつしにメルヘン」をもらうなど、冗談じゃない。そりゃもう、考えただけで御免こうむりたいことは言うまでもないのである。




2021.1.28

第四百三十二回 サラリーマンの辞めどき 

 何度か書いているが、筆者には一般の企業に勤務していたサラリーマンの経験がある。
 そして現在そうじゃないということは、脱サラしたのである。
 ようするに辞めたのだが、せっかくまっとうな企業に入社しているのに、サラリーマン生活で得られる安定や福利厚生を捨てて会社を辞めるからには、決意がいる。
 拘束があるからといって、会社を辞めたところで自由にはならず、むしろ以前にまして制約を課されることの方が多いだろう。
 詳しくは書かないが、筆者の場合はどうしようもなくなっていた。辞めたのは、ちょうど今頃の時期で(だから思い出した)、最後は有休を消化する形になった。
 係長だった上司は、「辞めたら爽快だろうなあ」と言っていた。
「人に頭を下げたくない」という。だが、サラリーマンの場合は、どの業種でも何らかの形で人に頭を下げることになる。サラリーマンでなくても社会生活とはそういうもの。どんな仕事でも相互に世話になっているのだから。
 誰にも頭を下げないでいるような存在は、接客にまったく頓着しない自営業の人(その代わり売りあげに影響する)か、封建時代の領主ぐらいではないか。
 そもそも人に頭を下げたくないという退職の理由は、いかにも青臭い。なんというか、そういう人は、敵に回しても怖くない。たとえば、戦国武将たちは、敵の目をあざむくためなら衆人環視の中で罵倒されても内心でほくそ笑んでいるだろう。むろん頭を下げるなど何でもない。そして何食わぬ顔で寝首を掻くのだ。そのほうが余程したたかで恐ろしい。
「会社に辞表を叩きつけたら、爽快だろうなあ」という上司の気持ちはわかる。実際、筆者も辞めたときには相当な解放感があった。
 いつもなら目覚ましのベルとともに起床しなければならないが、寝ていられるのだ。誰でも一度ぐらい夢見たことがあるのではないか。「あと5分」どころではない。好きなだけ布団の中にいても許される。冬だったので、朝の布団の恋しさは尚更で、極楽だと思ったものだ。
 寝床にしていたロフトの小さな窓から、冬枯れの街路を歩いてゆくサラリーマンや学生の姿が見えた。昨日まで自分もその中にいた朝の出勤や登校の風景である。
 しかし、自分は布団の中にいる。「こんな寒い日に、ご苦労さんだねえ」と他人事ならではの解放感を味わい、布団の中でしばらく本を読んで、いつもは見たことのないNHKの朝の連続テレビ小説を見ながら朝食を取った。くつろぎの時間だった。
 だが、「自由」を満喫しながら思ったのだ。これから自分はどうなるのだろう……と。
 それは、とてつもない不安だった。会社を辞めてしまった以上、自分は社会の中でどこにも帰属していない身なのである。組織の後ろ盾がない。30歳を目前にしているのに何者でもなくなった。収入のあてもない。ホームレスになる可能性もある。自由といっても「野垂れ死にをする自由」に他ならない。思えば向こう見ずなことをしたものである。
 ちなみに「辞表を叩きつけたら爽快だろうなあ」と語っていた上司は今どうしているのだろうと思い、その会社のHPを閲覧してみると(筆者も意地悪だ)、果たして彼の名前はしっかりと載っていた。堅実にも現在まで「爽快」な選択をしなかったらしい。賢明な判断といえる。




2021.1.21

第四百三十一回 魔人列伝 

 またかと顰蹙を買うことを覚悟しつつ、もう本当にこれが最後の『バロム1』ネタ。
 この作品の最大の売りであるグロテスクなドルゲ魔人たちを列挙したい。
 筆者の子ども時代の記憶で、造形的に強烈な印象を残した魔人のベスト3は、クチビルゲ、ウデゲルゲ、トゲゲルゲである。知らない人のために言うと、クチビルゲは頭部が巨大な口になっていて、それで人にかぶりつき、呑みこんでしまう食欲の化身なのだ。
 ウデゲルゲは、正確には「腕」ではなく、手首から先の魔人で、上半身がやはり巨大な右の掌になっている。しかも人差し指の先に目玉がついているのだから、このうえなく怪奇的で、かつ美しいバケモノだ。ちなみに発するうめき声は「アーム、アーム」ではなく、なぜか「フィンガー、フィンガー」である。
 トゲゲルゲは野茨の化身で、前面が合わせ貝のように開閉式になっており、そこにはさまれた人は、「鋼鉄の処女」のように巨大な棘を顔に打ち込まれてしまう。それが痛そうで、犠牲者の中には子どももいるのだから、容赦がない(ただしトゲゲルゲが倒されると元に戻る)。
 興味のある人は、検索すると見ることができるが、ほかにもノウゲルゲといって、上半身が肌色でしわだらけの脳みそという魔人や、ヒャクメルゲといって目玉だらけのバケモノもいるのだから、人体魔人シリーズは特撮ヒーロー史の中でも特筆に値すると思う。なお、ヒャクメルゲの造形には、子どもの頃には気づかなかったが大人になってわかるスタッフの「お遊び」があるのではなかろうか。人間の姿のときは女性なのだから、多分わざとだ。
 前にも書いたが、筆者は(子どもの頃は見られなかったが)イカゲルゲも好きで、これは『ロボコン』でいえば「ロボクイ」が好きだったのと同じく、あざやかな原色を全面に押し出したデザインに惹かれたのだろう。ほかにも、キノコルゲやナマコルゲなどが人気の敵キャラではないかと思われる。
 DVDの特典映像には、高野浩幸氏(白鳥健太郎役)のインタビューが収録されていたが、子どもの頃の撮影時はウミウシゲがとても気持ち悪かったのだという。なるほど醜い。ちなみに、このウミウシゲ、かの『スター・ウォーズ』エピソードⅣに出てくるタトゥーインの酒場で、ハンソロに殺される賞金稼ぎのエイリアンに酷似しているのだ。偶然とは思えないほどだが、ジョージ・ルーカスが『バロム1』を知っているとも思えない。なぜだろう。
 バロム1を追いつめた強敵といえば、筆者の子ども時代の記憶では、なんといってもアンモナイルゲだった。ヒーローが死にかけるほど苦しむ姿が衝撃だったのだ。
 しかし、DVDで全話を通して見ると、アリゲルゲでも苦戦しているし、トゲゲルゲにもかなり苦しめられている。バロム1の広い大胸筋に大きなトゲが刺さっているシーンはいかにも痛々しい。
 ウロコルゲも厄介な強敵で、次々に投げてくる「ダイヤモンドより硬い」というウロコ状の手裏剣に刺され、一度は倒されてしまう。ウロコルゲはそれで首領のドルゲにも褒められていた。
 そして思ったのは、バロム1が数々の危機を切り抜けるのにもっとも有効だったのは、「バロムドリラー」という回転技ではなかったか、と。『コンバトラーV』でも、決め技が超電磁スピンだったように、やはり回転する動きは強いのだと、『バロム1』を通して思ったのである。




2021.1.14

第四百三十回 木造校舎のおばけストーブ 

転校生というものは、新しいクラスメイトの登場という意味で、迎える側にとってもひとつの事件だが、転校する当人にとってはもちろん大事件だ。周りのみんなはこれまでと同じ日常をすごしていくのに、自分だけが、まったく異なる街や学校の中に飛び込んでいくのだから。
 小5のときに転校してきた女子は、緊張のあまり泣いていた。新しい環境に適応できるか、そこで友達ができるか、不安だったのだろう。
 筆者も小4で転校した。金曜日に和歌山市を出て家族で神戸のホテルに泊まり(今から思えば『新必殺仕置人』第33話「幽霊無用」を放送した夜だ)、翌日の土曜日に新居に入った。その新居のマンションに向かう国鉄(JR)の電車の窓から、これから通うことになる学校がすぐ下に見え、おおぜいの子どもたちが運動場で遊んでいた。「これから、ここに通うのか」と思った。
 土日に引っ越し後の片づけをし、月曜日から学校に通った。
 筆者が編入された学級は、その学校に残る最後の木造校舎の中にあった。
 これは幸運だったと思っている。木造校舎で授業を受けるなど、なかなかできない経験だったから。木造校舎は季節感が豊かで、大掃除をしてワックスをかけた後などの、木の廊下や床のしっとりした潤いも味わい深かった。
 それに、その学校は、SF作家の小松左京の出身校でもあった。後年、筆者は小松左京の大ファンになるが、小松先生が学んだ可能性のあるのは、その学校の中で唯一残っている木造校舎でしかないのだから。
 六甲おろしの吹きすさぶその街の冬は寒かった。木造校舎は尚さらコンクリートほど風を防がない。そのためなのか、冬になると、ほかでは見たことのない巨大なストーブが教室に備えられた。
 ブリキ製で、灰色の煙突が曲がりくねりって外へとつながっているのである。生徒がむやみに触ってヤケドをしないためか、周囲を網で囲まれていた。なんとも存在感の強い、古強者といったおばけストーブなのだ。
 誰が始めたのか知らないが、そのストーブで給食のパンを焼くことが流行った。
 ストーブの天蓋に、コッペパンを載せるのである。パンは少し手でつぶして平たくすると、焼ける面積が大きく、焦げ目がついたそれにマーガリンをぬって食べると、普通に食べるより格段に美味しかった。
 洗浄されていない、むき出しの天蓋に載せるのだから不潔なのだが、衛生観念の発達していないオスガキの頃は気にしない。まるで人類が火を使うことを覚えたような新発見で、次のステージへの進化にも似た一種のカルチャーショックがあり、そのときの楽しさは記憶に残っている。
 担任の先生は、定年間際のおばあちゃんで、厳しいがいい先生だった。この先生は、翌年に退職し、筆者らは最後の生徒になった。いや、担任の先生だけではない。
 木造校舎にとっても、筆者らは最後の生徒だった。5年になる前の春休みに取り壊され、校舎はすべてコンクリート製のものになった。そして、おばけストーブも翌年からは姿を消した。




2021.1.7

第四百二十九回 十年一日のごとし 

 これまでの人生をふり返って、去年ほどたくさん手を洗った一年はなかった。筆者にかぎらないだろう。無論、コロナのせいだ。
 前回、次に非常事態宣言が出されるとしたら云々……ということを書いたが、えらいもので2月を待たずに、もう発令が決まり、今日はその方針が決定するという。筆者の予想は外れっぱなしである。
 そんなこんなの世間の喧噪に振りまわされることなく、人里離れた山の中で世捨て人のように十年一日の孤独な生活を送りたいと考えているこの頃である。こんなことを書いていると、もうすぐ死ぬのかもしれない(実際に死んだら死期を予感していたと思われるが)。
 人の一生は短いものである。若い人には実感がないだろうが、あっという間に10年がすぎてしまう。毎年いろいろなことが起こって、いろいろ感じていても、時の流れの早さには驚かされるばかりだ。
 30歳をこえた頃には、100年前が、それほど昔には思えなくなっていた。1000年前はさすがに昔だと思うが、明治維新や、まして第二次大戦など、それほど古い時代の出来事だと感じなくなっていたことを覚えている。
 去年の年末、20年前に住んでいた街へ行き、よく昼食を食べに通っていたパスタ屋さんに入ったのだが、この店が当時のままだった。
 ちょうど10年前にも足を運んでいる。そのときも変わっていなかった。
 いや、もちろん過ぎた年月の分だけ古くなっている。ただお店の応対やメニューなどは同じ。古びたクリスマスツリー(これも当時のままだろう)の置かれた窓際の席、ほうれん草とベーコンのカルボナーラ、店内に流れているのはジョージ・ウインストン。まさしく十年一日のごとしである。
「いつかの店の、いつかの椅子で ひとり眺める想い出の街」
 とくれば、これは往年の刑事ドラマ『Gメン75』の主題歌『面影』だが、その歌詞のとおり、20年前に通っていた店の同じ席で、同じメニューの料理を食していると、世間の時間の流れが夢のようであった。
 お店のご夫婦は、あまり愛想がよくない。が、それでいい。筆者は店の人に介入されるのが嫌なので、放っておいて欲しいから。
 あまり流行っておらず、店内に客は筆者一人だけ。これも20年前からだった。静けさを愛する筆者はこのほうがいい。
 10年といえば、人生はこんな年月を(平均寿命として)7、8回くり返すだけなのか。人生100年時代というのが本当だとしても、10回程度ということだ。そう考えると、なにやら仏教的無常観に浸ってしまう。
 そういえば、国分寺道場の記念パーティーも、前回は2012年だったから、もう9年になるが、本来は「1」の年だから、30周年のパーティーは今年おこなわれることになる。コロナ騒動がつづくようなら延期になるかもしれないが。
 筆者が次にまたあの店に行くのは、(生きていたとして)やはり10年後だろうか。




2020.12.31

第四百二十八回 濱口梧陵を知っていますか 

 今年の漢字は「密」なのだそうだ。筆者としては「変」だった、いろいろな意味で。
 とにかく2020年の出来事といえばコロナ騒ぎに尽きるだろう。世界中がこれで引っ掻き回された。春の時点で、筆者は8月頃には収束していると思っていたが、その予想は大きく外れ、いまだに続いている。それどころか変異種まで出現し、拡大しているという有様だ。
 もし次に非常事態宣言が出されるとしたら、2月か3月あたりではないかと思う。ようするに、これから気候が暖かくなるというタイミングだろう。
 さて、話は変わるが、幕末の日本にもパンデミックがあったことが知られている。外国船によってもたらされたコレラにより、江戸の死者が10万とも30万とも言われるほどの数に上ったという。
 このとき、人々を救済するために私財をなげうって蘭学医たちに協力した大富豪がいる。ヤマサ醤油の7代目代表、濱口儀兵衛(梧陵)である。
 あまり知られていないが、この人物のことをご存じだろうか。
 紀州広村(現在の和歌山県広川町)の出身で、筆者にとっては、母方の実家がある町のすぐとなりだから、子どもの頃から話に聞いていてなじみのある人物だ。
 安政の大地震で津波が村を襲ったとき、稲むら(刈り取った後の稲を積んだもの)に次々に火を放ち、暗い海の中で方向がわからず漂っている人たちに、避難場所になっている丘の上の神社までの道筋を知らせたことで知られている。
 かつては、それが『稲むらの火』として小学校の教科書に載っていたらしく、たしかに絵になるシーンなのだが、濱口梧陵の真の偉大さは、むしろその後にあると言っていい。
 たとえ命が助かっても、村人たちは絶望している。漁師たちは舟や網が流されているし、農民たちはせっかく耕した田畑が津波でめちゃくちゃになり、泥にまみれ、海水で潮浸しになって再起不能の状態なのだから、気力をなくすのも無理はない。
 村人たちは、津波に弱い村を捨て、出ていこうとしていた。
 梧陵は最初、仕事に必要な道具や食料を自分の資産から寄付したが、そのままだときりがないことを知っていた。援助されることになれてしまうと、人はそれが当たり前だと思い、甘えが生じて気力が湧かなくなる。
 そこで梧陵は仕事を与えた。将来、また津波が村を襲っても防げるように、大規模な堤防を設計し、工事を始めたのである。その人足として仕事をなくした村人たちを雇い、報酬を日当として、その日に払った。自分たちの村を自分たちで守る。その姿勢を示したのだ。これぞ真の救いだろう。
 発展途上国への支援にしても、ただ物質を援助するよりも、教育や仕事の機会を提供することが自立につながると思うが、これによって人々は気力を取り戻した。
 梧陵は、この堤防造りにあたって、「百世の安堵」という言葉を使っている。「百世」というのは百年のことではなく、未来永劫という意味だ。
 実際、これより88年後、昭和21年に広村を襲った津波は、この堤防によって防がれている。言葉通りなのがすごい。ちなみに今年、2020年は、濱口梧陵の生誕200年である。




2020.12.24

第四百二十七回 マンションで遊ぶな 

 世間はクリスマスだが、クリスマス映画といえば、筆者はまずブルース・ウイリス主演の『ダイハード』が思い浮かぶ。
 とくに1作目は主人公が超人的ではなく、ごく普通の刑事の危うい頭脳戦で、これでもかというほど脚本が練られており、スリリングな展開の中にユーモアもあって良かった。
 面白い発見もあった。閉鎖されたナカトミビルの中で孤軍奮闘しているマクレーン刑事(ブルース・ウイリス)が警察の応援を呼ぶのだが、連絡を受けてやってきた警官のパトカーがテログループにだまされ、そのまま帰ろうとする。
 マクレーンは「目が見えないのか(日本語字幕)」と罵るが、原語では「Who、s driving this car,Stevie Wonder?」で、直訳すれば「誰がこの車を運転してるんだ、スティービー・ワンダーか?」なのだ。その警官は太っちょの黒人で(水野晴郎氏に似ている)、マクレーンはこの時点で会っていないのだが、これなどは脚本のお遊びだろう。
 だいたいテロリストに占拠された超高層ビルという、閉鎖された環境が舞台なのだから、嫌でも緊迫感を呼び起こす。
 さて、ここで話はまったく変わるが、筆者は小学4年のときに、大きな建物の中で追いかけたり逃げたりする「ダイハードごっこ」をしたことがある。
 場所は西宮に建つ7階建ての新築マンションだった。新築どころか、できてまだ1、2カ月の頃で、中はピカピカ、新築ならではの匂いがしていた。当時、豪華なマンションが近くにできるというので話題になっており、そこへ友達の家族が入居したのである。で、遊びに行ったついでに、マンション全階を舞台に鬼ごっこをして遊んだのだ。
 これがめちゃくちゃ面白かった。鬼がどこにいるかわからず、マンションのどの階で、いつ鉢合わせするかわからないというスリルがあった。
 ある階でエレベーターの前にいると、鬼がエレベーターに乗ってあがっていくのが、透明ガラスのドアごしに見えた。そのエレベーターの止まった階に鬼がいることになる。
 また、階段の下に鬼がいるとき、筆者が『宇宙戦艦ヤマト』の序曲を口ずさむと、エコーがかかって全階に響き渡り、彼は怖がっていた。なぜそんなことをしたのか、筆者もわからない。
 ヤマトの序曲というのは、毎回の冒頭、遊星爆弾が地球を攻撃するシーンで「西暦2199年」といって始まるナレーションとともに流れる川島和子さんの美しいスキャットだ。
 鬼は、ひっそりとした屋内階段に一人でいて、孤独と不安を覚えていたのだろう。そこへ「アーアーアアア、アーアー」と声が響いてきたのだから、下から「やめてくれ!」と言っていた。
 できたてのマンションで、まだ入居者が少なく、幸いにもこの鬼ごっこのあいだ住んでいる人と会ったことは一度もないが、いずれにしても迷惑な話だったと反省している。
 ちなみに、このマンションは現在でもある。ついでにいうと、この頃から16年後に、筆者の実家が入居した。筆者はもう東京に出ていたが、もしマンション内で遊んでいる小学生がいたら注意していたかもしれないのだから現金なものだ。『ダイハード』とはあまり関係ないけれど、子ども時代のこんな遊びを思い出してしまった。




2020.12.17

第四百二十六回 映画狂時代 

 人の一生の中には、映画を集中して観る時期があるように思える。まるで、そこから生き方を探ろうとでもするかのように。
 筆者が中学生の頃に通っていた寺子屋的英語塾は、ある灘酒の酒造元だった。西宮にある大きな日本家屋で、その一人娘(おばさん)が先生なのだ。小学校の5年ぐらいから通い出しただろうか。その大きな邸宅の応接間で、組み合わせた木の机を囲み、ゲーム形式で英語を教わった。
 先生は顔が広く、毎月、映画の無料鑑賞券を何枚か手に入れていて、筆者らに分けてくれた。これは夢のようにうれしかった。どこの映画館でも入場でき、無料で観ることができるのだから。
 その寺子屋的塾に通う友達と二人で、ほとんど毎月、阪急電車に約20分ばかし乗って、神戸三宮の映画館に足を運んでいたのだ。なんと贅沢な中学生だっただろう。
 神戸は、明治時代、日本に映画が初めて上陸した街だという。
 当時(つまり震災前)の三宮駅は、天蓋がドーム状で、駅の構内に阪急シネマと阪急会館という映画館があり、その入口のエレベーターの付近に神戸中の劇場で上映されている映画の予告編がエンドレスで流されていた。和歌山から転校してきた子どもにとっては、「さすが映画の都」という文化的衝撃があった。
 毎月のように映画を観ることができるのだから、筆者と友人は映画にはまり込んだ。鑑賞しなくても、毎週日曜日には三宮に出かけた。何のためかって、映画のチラシを集め始めたのである。上映中や上映前の映画なら劇場で手に入るが、過去の作品はチラシの販売店で購入した。
 中1の冬に、筆者は初めて『スクリーン』という映画雑誌を買った。たしか、12月号か1月号で、今頃の時期の正月映画特集号だった。
 中身で覚えているのは、『スター・ウォーズ』のルーク役で知られるマーク・ハミルの自宅が紹介されていたことだ。彼が自分の好きなコミックの切り抜きを壁に貼っており、そのことに「マークらしいですね」という記事の一文があった。「らしい」というからには、マーク・ハミルのキャラクターを把握しているからであって、記者が外国人のスターに詳しく、いかにも映画通な雑誌という感じがした。
 表紙は金髪女性の正面アップで、同じ年の春頃までコロコロコミックを読んでいたことを思うと、それだけで大人の世界に踏み出したような気がしたものだ。
 その頃の筆者は、部屋に映画のポスターを何枚も貼っていた。映画館で買った、主に観に行った洋画のポスターがベタベタと飾られ、それらの絵柄とタイトルに囲まれた部屋で日々を過ごし、買うレコードは映画のサントラばかりという映画狂時代だった。
 その後、大学生の頃は名画座にも足を運んだり、鬱屈したサラリーマン時代には、ほとんど毎日、帰宅時にレンタルビデオ屋によって交換していた時期もあった。
 でも、感受性の差なのだろうか、のめり込み方が違った。中学生時代、いったい何を求めてあんなに映画を観ていたのだろうと思う。




2020.12.10

第四百二十五回 物足りない最終回 

 ブロロロローから始まって、ギューンギュギューン、ルーロルロロ、ズババババーンなど、長嶋茂雄が作詞したかのような主題歌で始まる『超人バロム1』。
 またこの話題か、と思われそうだが、そう、ついに最終回まで観たのである。
 最終回を含むラストの2話では、新しい魔人が登場せず、再編集された過去のシーンが流され、人気の魔人が顔見せのように登場するが、戦った相手はほとんどアントマンなのだから、出来はあまり良くないといえる。
 最後はビルを見下ろすほど巨大化した敵の首領ドルゲと、バロム1は直接対決をしたらしい。らしい、というのは、ラストでドルゲがなぜか宇宙に出て行き(このシーンで一番下がどうなっているのか初めて見える)、それをバロム1が追いかけて接触するのだが、戦いの場面はなく、両者ともに光の点なので、なにが起こったのかわからないのだ。
 全編を通じてドルゲはほとんどの登場シーンが直立不動であり、ひじきのような指先を動かすばかりで、あまりアクションには向かないのだろう。
 最後にバロム1が地球の崖の上に現れて、おざなりに勝利のポーズを取るのだが、いっさい説明がないままだった。これはバロム1のエネルギーがドルゲのそれを上回ったということなのか。
 その最終回で、バロム1がアントマンの一人を締め上げ、人質の連れていかれた行き先を「言え。言わんか」と迫る場面があったが、それは無理というものだろう。わらわらと出現しては、奇声を発して襲い来るばかりで、倒されては跡形もなく消えるというシュールな存在の彼らと、言語を介したコミュニケーションが取れるはずもないではないか。と思ったが、実は第15話のミノゲルゲの回で、アントマンが会話する場面があったのだ。
 ミノゲルゲという魔人は、吸った者を無気力にしてしまう「怠けガス」を噴出するのだが、バロム1に向けて発射したガスがかわされ、格闘中だったアントマン数人にかかってしまう。するとアントマンたちは、にわかに戦意を喪失し、面倒だよな、このほうが楽だよな、という意味の愚痴をこぼしながらその場に座り込んで戦いを辞めてしまうのである。全編を通して唯一この場面きりだが、彼らも意味のある言葉を口にすることができたのだ。
 ちなみにバロム1の中身は、小学生の猛と健太郎なのに、変身後の言動が大人っぽい。叔父の松五郎を上から目線で「松五郎」と呼び捨てにし、姉の紀子を「紀子ちゃん」などと呼んでいる。
 無意味なセリフもあった。逃げるタコゲルゲと、それを追うバロム1のやり取りで、
 バロム1「待てー!」
 タコゲルゲ「待てるかー!」
 これはタコゲルゲのほうに一理ある。待てないから逃げているのであって、客観的に見ても不毛のやり取りだ。まるでアドリブのような脚本である。
 最終巻のDVDには、特典映像として『ゴルゴ13』で有名なさいとう・たかを先生(原作者)のインタビューも収録されていた。今さらだが、子どもの頃に見ていた番組を、こうやってもう一度楽しむことができるのだから、便利な時代になったものだと思う(ほんとに今さらだ)。




2020.12.3

第四百二十四回 転校して最初の友達 

 中学受験用の教材で『力の5000題』というのが今でもあるらしい。それを知って懐かしくなった。
 筆者は小4のときに転校したのだが、転校先の学校で最初に友達になってくれたのが、G君という少年だった。
 Gは成績優秀で、言動も大人びており、誰もが認める出来杉くんタイプの秀才だった。そして、私立中学への進学を志し、当時では珍しかった中学受験を考えていた。
 6年生の晩秋になると、Gとの話題の中で『力の5000題』という言葉が出てきたのを覚えている。普通の学校生活では聞いたこともない中学受験用の教材だったが、Gの影響を受けたのか、筆者もなぜかそれを買い、受験用の塾に通い始めた。
 このあたりの経緯はよく覚えていない。中学受験などする予定はないのに、なぜ塾に通うことになったのだろう。しかもGとは違う塾だった。
 自転車で10分ほどのビルのワンフロアにある小さな教室で、生徒は筆者を含めて8人ばかりの少人数だったと記憶している。ほかの通塾生たちとは友達にならず、ろくに会話もしなかった。受験目的で通っている少年少女たちの中で、筆者はひとり浮いていたと思う。
 ここで覚えているのは、国語の『力の5000題』に載っていた詩や文章だ。「冬の夜道」という詩が良くて、しんみりと心に沁みた。だが受験の教材として読んでいるのだから、いちいち心に沁みている場合ではない。算数の記憶は絶無だし、そもそも中学受験をするわけではなく、当然ながら志望校もなく、それ以前にどんな私立中学があるのかさえ知らないのだから、その教室に通っている意味がないのである。
 必然的結末というか、年明けに筆者はその塾を辞めた。理由は、毎週好んで観ていたテレビアニメを優先したからだった。急いで塾から帰っても本編は観ることができるのだが、その番組のオープニングの最初の瞬間から観たかったのである。
 あえて具体的にいうと、『サイボーグ009』のOP主題歌「誰がために」が始まる時に、闇の中でキラーンと光が輝くところから観たかったというわけで、しょせんはその程度。晩秋から始めて、ほんの3カ月ばかりのエセ「受験生」だった。もしかしたら、受験が2月なのだから最後までいたのかもしれないが、それもよく覚えていない。
 とにかく、志望校に合格したGとは違う普通の公立中学に通うことになり、部活やら何やらで忙しく、中2でもまた転校したので、それ以降は互いに連絡が途絶えることになった。
 が、母親同士の話から聞くと、Gはその後、元帝国大学のひとつである有名な国立大学の医学部を受験したという。何も考えていなかった筆者なんかとはちがう。彼は小学生のころから医者になることを志望していたのだ。
 家庭の事情で、受験できるチャンスは1年きりだった。そして受験当日、あろうことかGは高熱を出してしまった。浪人は許されないのであきらめるわけにはいかない。最悪のコンディションのまま受験に臨んで、Gは合格した。
 彼は現在、出身の国立大学の附属病院で、放射線科の医師として活躍している。




2020.11.27

第四百二十三回 家電製品の反乱 

 まずは訂正とお詫びを。  このブログの第419回『北口のスーパーを比べてみる』で、別の百貨店の名前を出しましたが、国分寺の駅ビルにあるのは「クイーンズ伊勢丹」です! そして前回、『ガッチャマン』のリーダー的存在は、「荒鷲のケン」と書いていますが、実際は「大鷲のケン」でした。サクサク書いていると、こんなミスをしてしまうようです。最近たるんでいる証拠かもしれません。
 いい加減な仕事ぶりは、ひとに迷惑をかけることにもなるので要注意です。
 たとえば、筆者はAmazonのギフト券を買って、その代金分を損したことがあります。
 1万円のギフト券だったので、1万円分の損失です。紙のカードでナンバーを出す仕組みのものですが、書いてある指示通りにしたら、いとも簡単に紙が破れたのです。
 販売店はその責任を取りませんでした。Amazonに連絡してくれというので、そうすると、Amazonのほうでは販売店に求めてくれと言い、ようは押し付け合いで、結局のところ両者とも欠陥商品を発行したことや販売したことへの責任は取らないのです。
 ちなみに、この販売店は、西国分寺の駅構内にあるコンビニです。こちらは被害者だし、同じような被害を防ぐために、ここで名前を出してもいいかもしれませんが。
 それから、去年から今年にかけて、自宅のエアコンが3回壊れました。
 1回は経年劣化でこれは仕方ありません。新品に交換してもらったのですが、それが2か月後に機能しなくなったのです。つまり冷風が出なくなった。新品なのに、ということで、それも連絡してまた交換してもらいました。
 すると、その数週間後に、壁から剥がれました。室内機がしっかりと基盤に止められていなかったので、いきなりガクンと離れ、しかしホースが外につながっているために落下はせず、そのホースによってぶら下がるという形になりました。
 なんという杜撰な仕事ぶりでしょう。即座に連絡しましたが、取りつけるのがまた手間取っていて、謝罪はいいから原因を教えてくれと言っても、どうも要領を得ないのです。
 原因がわからなかったら、また同じことが起きるだろうと言って、結局、筆者が誘導する形で原因を解明し、取りつけたのですが、これじゃプロとは言えません。しかも、なんということか、そのエアコンがまた効かなくなって、再々度の新品交換となりました。ここまでくると、不正なルートによって入手しているまがい物ではないかとさえ勘繰りましたが、製品はあくまでもその年度に製造された新品なのです。
 去年はパソコンも3台買いました。ひとつはMacで、それは問題ないのですが、WindowsのほうがDVDを入れても「ディスクが空です」という表示が出て作動しなくなり、またデスクトップがどうにも使いづらく感じていたので、断腸の思いでノートに替い直したのです。そしたら、そのノートもDVDが使用できなくなり、外付けの装置を買って対処しました。
 ここでメーカー名を出すのも大人げないですが、買ったのが2台ともポンコツだったのだから言ってもいいかもしれません。ただし原因がOSかメーカーのせいかわからないので、やはり伏せておきます。ひとつ言えるのは、パソコンはMacのほうがいいということです。
 以上は、客観的に見ても5流の仕事ぶりをしているであろう人々の例でした。




2020.11.19

第四百二十二回 アオレンジャーだった 

「バンバラバンバンバン」と「ババンババンバンバン」は、似ているようでいてまったく違う。同じ5人組でも、前者はゴレンジャーで、後者はドリフである。
 今回はそのゴレンジャーについて触れたいが、ご存じない方のために言うと、赤・青・黄・ピンク・緑の5色に分けた仮面とコスチュームに身を包み、個性や特技の異なる5人組が悪の組織と戦っていく物語なのだ。このような特撮戦隊モノというジャンルは現在でもつづいているようで、その第一弾がゴレンジャーだったらしい。主題歌で「これが最後だ」と言っていたが、これが最初だったのである。
 まず「ゴレンジャー」という名称だが、日本語の「ゴ(5)」とレンジャー部隊を組み合わせていて、しかも音の響きがよく、このネーミングだけでもう成功していると思う。
 メンバーの中にカレーが大好物のキレンジャーという九州男児がいて、いきつけの喫茶店で、「マスター、カレー大盛り二杯」と、最初からそういう頼み方をする。左門豊作もそうだが、九州男児はこのように大柄で朴訥な描かれ方をすることが多い。
 今思えば、敵たちも憎めない善人だった。いつも戦いの前にゴレンジャーが一人ずつ名乗りをあげていくのだが、それが終わるまで攻撃せず、きちんと聞いて待っているのだから。
 モモレンジャーなどは、イヤリング爆弾を投げるときに「いいわね、いくわよ」と敵に確認を取っていたが、もし「ダメだ」と言われたらどうするつもりだったのだろう。
 さて、当時の子どもたちは当然、このゴレンジャーごっこをやった。そして筆者はアオレンジャーの役だった。といえば、師範やアジアジに笑われるだろう。
 いちおう説明しておくと、アオレンジャーというのは、いわゆる「ニヒルな二番手」の役なのだ。演じているのは、ニヒルが似合うイケメンの宮内洋。
 これはチームものに度々見られる配置パターンで、『ゲッターロボ』ならリョウに対してハヤト、『ガッチャマン』なら荒鷲のケンに対してコンドルのジョーというように、いかにも健全で正統的な主人公キャラの次に、やや陰があって斜にかまえ、だが凄腕という役どころがいるのである。『ゴレンジャー』では、それが(アカレンジャーに対して)アオレンジャーなのだ。
 当時の空き地にはいろんなものが落ちていて、アオレンジャーだった筆者は、曲がった太い樹の枝を拾い、その両端に、やはり落ちていた紐を結んで簡易の弓をつくった。そして金属の棒(傘の骨か何か)を矢のかわりにつがえ、放ってみると、意外なほど飛んだのである。(註・アオレンジャーの武器は、ブルーチェリーという弓矢である)。
 といっても、もちろん大した距離ではないが、思っていたより飛んだのでおどろき、同時に危険も感じた(よい子はマネしてはいけません)。
 ほかにゴレンジャーで覚えているのは、本編が終わった後、アカレンジャーが出てきて、なぞなぞを出されたことだ。そのときアカレンジャーは「今日のゴレンジャー、おもしろかったろ?」と言った。
 番組への好意的な感想を、まさかヒーローから直々に念押しされるとは思わなかった。しかも、その言葉が、おもしろかった「ろ」なのだ。これは一種の衝撃だったらしく、そのために数十年たった今でも覚えているのだろう。




2020.11.12

第四百二十一回 広報室のオシゴト 

 またサラリーマンのネタで恐縮。
 広報室の話だが、ここの仕事内容といえば、社員の親睦や情報共有などを目的とした社内報の制作および発行。また(筆者が勤務していたのはメーカーだったので)新製品の発売に合わせた広告や宣伝など、主として情報をあつかう部署と言ってもいいだろう。
 社内報の記事を書いたり、代理店の人が書いた業界誌に載せる文章に赤ペンを入れたり、CM制作は広告代理店に委託しているが、起用する芸能人を決めたりもした。
 また、筆者はやらなかったが、その芸能人に製品の使い方を説明する役割もあった。出演してもらった芸能人は、筆者の在籍時には壮年から老年にかけてのオジサマたちだったが、なぜか広報室から異動したタイミングに合わせて、若い女性アイドルが起用されていた。いずれも名前は伏せる。現在は誰がCMに出ているのだろう。テレビを見なくなったのでまったく知らない。
 ある時、一日中スタジオに入り浸ったことがある。モデルチェンジした新型商品が発売されるので、その紹介の広告を作るためだった。
 自分たち広報室のメンバーは、依頼している代理店のスタジオで、テーブルを囲んでコーヒーを飲みながら雑談し、時々できあがってくる文章と写真をチェックするだけ。一日中そうやって雑談して過ごした。いつもは忙しいのに、夢のように楽な一日だった。
 そのスタジオで仕事をしている代理店の担当者は、海外の面白い小説を読んでいると言い、かたわらにおいているその文庫本が気になっているようで、仕事を進めながらも時おりページをめくりながら話していた。題名を忘れたのが残念だ。今ならネットで探せるのだが。
 仕事を通じて「ロケハン」という言葉も初めて知った。リュック・ベッソン監督の新作の試写会を手配するのに劇場をおさえ、現場を知っておかないといけないので下見に行ったのだ。
 ただし、映画自体は観ることができなかった。この仕事は何だったのだろう。なぜ試写会と関係していたのか、よく覚えていない。社内でもチケットが配られて、若手の社員たちが観に行っていた。上映されている間、筆者らは劇場の外で立ちんぼだったが。
 新宿のアルタの前で、新製品の実演をおこなったこともある。といっても、実演するのはキャンペーンガールたちだ。応募して集まった彼女たちは、商品名を入れたおそろいの派手なジャンパーを着て、アルタ前を通ってゆく人々に商品を紹介する。
 筆者らは現場に立ち会っているだけで、たまに彼女たちのわからないことがあれば応えるという役。この日も日曜日で、休日出勤だった。
 メンバーの中にIさんという、少年のように小柄で、ものすごく口の悪い人がいて、代理店の女性などにセクハラ発言を連発していた。本人は悪気のない冗談のつもりでも、慣れっこになっている我々と違い、新入社員の女の子が不気味がって辞めてしまったこともある。
 このアルタ前で実演した日は、休日出勤した我々を気遣って、代理店の方々が夕食を接待してくれた。六本木などという、プライベートでは決して足を運ばない街の料亭で食事をし、勘定をしてくれている代理店の人が出てくるのを玄関前で待っていると、同じ店から見覚えのある男性が出てきて、玄関前で談笑していた。上岡龍太郎だった。




2020.11.5

第四百二十回 幼なじみは今どこに? 

 幼なじみという言葉には、どこか郷愁を誘う響きがある。それが今どこにいるかもわからず、もう会えない相手なら尚更だ。
 筆者にも、幼いころに故郷の街で遊んだ相手が何人かいる。その中に、夏希ちゃん(仮名)という子がいた。
 これは母から聞いた話である。
 ある日、うちの母と夏希ちゃんの母と、もう一人Pさんの3人で百貨店へ、子連れで買い物にいった。つまり筆者と夏希ちゃんとPくんもいっしょで、この3人は同い年、まだ小学校に上がる前の幼稚園児だった。
 買い物を済ませた後、母たちは百貨店の屋上で休憩をしたらしい。この当時、百貨店の屋上といえば、子どものための遊具が備えられたミニ遊園地のようでもあり、筆者たち子どもは3人で夢中になって遊んでいたという。
 と、ふとPさんが「あら、財布がない」と言った。夏希ママは、なぜか急に筆者の母が盗んだのだと言った。母はもちろん否定し、見ると、夏希ママがPさんの財布を足下に落として靴で隠していたのだという。
 夏希ママには盗癖があったのだ。これは病的なもので、困ったことにその衝動を抑えるのが難しいらしい。
 その後、夏希ママは市内の宝石店に単独で泥棒に入り、警察に逮捕されて刑務所に送られた。夏希ちゃんが(つまり筆者も)小学3年生の時だ。
 噂は広まるだろうし、お父さんは離婚していないし、一人で残された夏希ちゃんは、それまで住んでいた貧しいアパートから、町内のすぐ近所に住む祖母に引き取られた。
 もちろん彼女にはなんの罪もない。親のやった犯罪で、娘がつらい想いをしているのだ。
 夕方、近くの公園で、あたりがうす暗くなっても、夏希ちゃんが一人でブランコに腰かけている姿を、母が見かけている。可哀想だと思いながら声をかけられなかったという。
 ゆき場をなくした小3の少女が、ひとけのない秋の夕暮れの公園で、たった一人、ブランコに腰かけている姿。まるでドラマのような情景だが、筆者のすぐ身近にあった現実である。
 そのとき筆者は何をしていたのだろう。同性の友達と遊ぶことが多かったし、不甲斐ないことに、この事件をほとんど覚えていない……。
 小4で筆者は転校して、故郷の街を離れた。夏希ちゃんの家も引っ越したらしく、それからの消息は知れないままだ。
 筆者らがよく遊んでいた近所の公園は、いつかこのブログで書いたが、妹がタケノコとまちがえて犬の糞を拾ってきたり、お盆の夜に従姉妹たちと肝試しをした公園だ。
 筆者は今でも帰省したときに、この公園のそばを通り、たまに中に入ってみることもある。
 近所に子どもの数が少ないのか、いまの子どもは家でゲームをしているほうがいいのか、すっかりさびれ、雑草は伸び放題になっている。
 ブランコの板はボロボロだが、当時のものだ。鎖も、替えられていないものもある。それを見ると、小3の夏希ちゃんがさびしげに腰かけていたことを想って切なくなる。




2020.10.29

第四百十九回 北口のスーパーを比べてみる 

 レジ精算の最後の砦だった北口の西友も、コロナ禍に後押しされたのか、先日ついに自動精算機が導入されていた。いったんレジ係とのやり取りを通すので、それほど時間短縮のメリットはないように思えるのだが。
 それはともかく、国分寺北口近くのスーパーでは、まず駅構内にクイーンズ高島屋と丸井地下の食遊館がある。が、この両者は百貨店だけに値が張ってしまう。
 たしかに豪華だ。昔、筆者が南口のマンションに住んでいた頃は、よく丸井の食遊館を利用していたが、キラキラしたライトに照らされ、磨かれたガラスの中に並ぶ惣菜が、どれもこれも美味しそうに見えて、誘惑を振り切るのに困った記憶がある。
 その点、西友は値段の点で安くていい。駅からも近いので帰りに寄るのに都合が良く、レジ係の人もベテレンが多いように思う。
 値段の点では、OKストアはもっと安いかもしれない。とくに肉と酒が。
 たしかに安いのはいいが、肉の質は良くない気がする。たまに高い値段の肉を買ってもそう思う。ただ、酒が安いのは確かで、それは長所だ。
 が、ここは買い物がしづらい。まず入口が二重になっていて、先に入る人がもたついたりカートを取ろうとしたりして、スムーズに入れることのほうが少ない。店内も混雑している。営業時間内に棚入れしているので、店員さんが買い物の邪魔になることが多いのだ。
「どうぞご利用くださ~い」
 と言うのだが、
「どうか利用させてくださ~い」
 と返したくなる(もちろん口には出さない)。
 店員さんのレベルは玉石混交で、ブツブツ文句を言ってる間抜けもいる一方、非常に親切丁寧な人もいる。ある日、レジ精算後に商品を落としてダメにしてしまったら、新しいものに取り替えてくれた方がいた。あの時は大感謝した。概ね若い男性店員がダメで、女性店員のほうがきちんとしている傾向にあるようだ。
 北口には、駅から離れるが、サミットもある。先月、道場で飲んだときにサミットの惣菜を知ったが、それが良かったので、筆者はあれから2回、サミットまで足を運んだ。
 そして思ったのだが、結局サミットが一番ではないかと。
 店内は広々として、買い物がしやすい。加えて惣菜が豊富で、しかも上質。
 たとえば焼き鳥。ご存じの通り焼き鳥には「タレ」と「塩」がある。筆者は塩しか口にしないが、スーパーで売られている焼き鳥が居酒屋のものとちがって残念なのは、どろっとした「塩だれ」がかけられている点である。
 サミットの焼き鳥(塩)はそうじゃなく、カラッと焼きあげられている。ほかの惣菜も、トリ皮ポン酢をはじめ、非常にいいものがそろっている。
 短所としては筆者の家から遠い点だが、これはサミットのせいではない。徒歩で15分ほどかかってしまうので、そう頻繁には行けない。でも、トレーニングがわりだと思って早足で歩けば苦にならないので、これからもたまに行くだろう。




2020.10.22

第四百十八回 同期という関係 

 同期という関係には、一種特有の親近感があるように思える。
 会社で同じ部署の人たちは、仕事の内容を共有している関係だ。筆者のいた会社にはなかったが、学歴による派閥などは、同じ大学で学んだという帰属意識によるものだろう。
 同期入社の場合は、比較的年齢が近い。比較的というのは、卒業が高校・短大・大学に分かれ、4年制大学でも浪人や留年があって、小・中・高の学年のように同い年というわけにはいかないからだ。が、同じ年度に新社会人としてスタートを切った関係だから先輩でも後輩でもなく、飲み会になると最初のうちは学生のようなノリになる。
 高卒で入社した同期の女子たちは、初めての給料で、職場の近くにある評判のギョウザの店に食べにいったという。筆者は大学一年のときはグータラしてアルバイトなどしていなかったので、去年まで高校生だった身で、自分が働いて稼いだお金で楽しんでいるのは、それだけでエライと思った。  同期の男女は、社員旅行で外国へ行ったときは、海でいっしょに泳いだり、夜にホテルの同じ部屋で飲み会をしたり、なんだか兄妹のような感じだった。
 同期で何度か土日に旅行もしている。車を持っているメンバーが何人かいて、それに分乗して一泊二日で熱海へ出かけたこともあった。オンボロのボウリング場で遊んだり、夏のことで花火大会も見た。
 二日目の朝、男たちが大部屋でまだ寝ていると、女子社員のチャキチャキした世話女房タイプのMという娘が起こしに入ってきて、「いつまで寝てんの。ほらほら、さっさと起きなさい!」と言って、一人ずつ強引に布団を引っぺがしていった。
 が、途中、彼女が悲鳴をあげたのだ。
 なんだったのか、あとで訊いてみると、ちょっと個性的な森君(仮名)という奴がいて、彼は半覚醒状態ながらMが一人ずつ布団を剥がしていくのを薄目で確認し、うつ伏せになったまま、掛け布団の下でこっそりと浴衣の裾を限界までめくり上げ、みずからパンツをTバック状態にして待っていたのだという。
 で、Mが森の掛け布団をはがした瞬間、その状態の姿を見て悲鳴をあげたというわけだ。
 帰りの山道は渋滞しており、遅々として車が進まないので、筆者はドアを開けて車から降り、前を進むメンバーの車まで走って話しかける、というようなことをしていた。
 そして、また自分の乗っていた車に戻り、もとの後部座席に乗ろうとすると、そこには森がなにくわぬ顔をして座っていたので驚いた。彼はひとつうしろの車に乗っていたのだが、筆者がドアを開けて飛び出したのを見て、そんなイタズラを思いついたのだという。
 同期の仲間意識が強いのは、これから初めて社会人になるという一種の緊張状態の中で、しばらくの期間、新入社員研修を受けるという共通の体験をし、ともに不安を共有したという意識があるからではないだろうか。
 これを極真の道場生に当てはめると、入門の時期はバラバラなので、同じ年に昇段審査を受けた関係がもっとも「同期」と呼ぶに近いように思える。不安や緊張を共有したという点でも、それは共通している。




2020.10.15

第四百十七回 まったりとした日曜日 

 あのサラリーマン時代に比べれば……当時の激務に比べれば多少の忙しさにも耐えられる、と殊勝に思うほど筆者は若くない。
 だいたい無償奉仕のハードワークに疑問もなく身を投じることができるのは、社会の構造を知らない若年のうちだけである。
 その若年だった筆者が某企業の広報室にいた頃は、部署間の移動で社内を走ったことがあった。なんでそんなことになったか覚えていないが、走らないと間に合わないほど忙しかったのである。
 前も書いたが、朝は早朝出勤で、帰りはいつも残業だった。
 ある日の夕暮れ、残業にそなえて会社近くのコンビニで弁当を買い、オフィスに戻る道で、同期入社の女の子に会った。彼女は帰るところだった。
 その娘は高卒で入社しているので、同期といっても年齢の差はあったが、気安くタメ口を利くのが生意気であり、また可愛らしくもあった。同期はみんな仲が良かったと思う。
 彼女は筆者のさげている弁当の袋をのぞき込んで、
「わあ、おいしそうだな。いいなあ」
 と言って帰っていった。
 そっちこそ気楽でいいな、と思ったことを覚えている。これから残業をする筆者は、コンビニの弁当が晩ごはんだったのだ。
 そう、同じ会社に勤めていても、若い女子社員たちは、趣味や習い事など、退社後の時間を自分の好きなことに使って楽しんでいたのである。それを羨ましいと言えば、男性社員としてはカッコ悪いだろう。だが、学生時代に始めた習いごとができず、それこそ極真の道場に通えなくなると、あれは結局なんだったんだろう、と思ったりもした。
 広報室はCM制作もするので、希望する社員も多く、人気の部署なのだが、とかく忙しくて休日出勤することもあった。
 その日は、社内報の閉め切り間際の日曜日だった。ほかにも2人が出社していて、閑散とした会社の中、3人で仕事をしていた。筆者は近所のコンビニで「たけのこの里」を買ってきて2人にも勧めると、口の悪い先輩社員のIさんが、
「いらねえよ、そんなオメーのチンコみたいなもの」
 と言い、女性社員のKさんは、「こんなに小さいの?」と思わず言って、「K、オメー働きすぎだろ」とIさんにツッコまれていた。Kさんもかなり疲れていたようである。
 それにしても、いつもはあくせくと時間に追われているのに、ひっそりとしたオフィスで、ときどき3人でこんな無駄話を交わして笑いながら、「たけのこの里」をつまみつつ、のんびりと仕事を進めるのは、実にまったりとしていて良かった。
 ひっそり、のんびり、まったり。……そして夕方には帰る。理想的だ。
 いやいや、そうじゃない。よく考えてみれば本来は休みの日曜日なのである。通常勤務だけでは間に合わないから休日出勤していたのだった。
 しかも無償。ちっとも得なんかしていなかったのだ。




2020.10.8

第四百十六回 9時から5時まで? 

 ずっと昔、『9時から5時まで』という映画があった。
 筆者は観ていない。ジェーン・フォンダ主演で、題名は勤務時間をさしているらしい。ようするに企業に勤めるOLを主人公にしたコメディ映画なのである。
 そう、通常、サラリーマンやOLの就業時間といえば、9時から5時までだ。ドラマや映画や漫画など、フィクションの中ではそうなっている。
 筆者にも5年ほど、とある企業でまっとう(?)なサラリーマンをしていた期間がある。始業時間は8時50分という中途半端な時間だったが、終業時間は午後の4時50分ではなかった。
 定時退社など、とんでもない。そんなのはお題目にすぎない。入社したての新入社員研修の期間をのぞいて、5時台に帰ったことなど一度もなかった。
 筆者の勤務していた会社が、もしくは部署が、特別だったのだろうか。ほかの会社を知らないので、それが当たり前だと思っていた。
 当たり前でないことに気づいたのは、ある日、仕事で必要な備品を切らしていて、会社から駅近くの店まで買いに行ったときだ。
 夕方の6時ぐらいだったか。一日の勤務を終え、家路について駅構内へ入っていく人の多さを見てショックを受けたのだ。
(この人たちは、こんな時間に帰れるのか!)
 オフィス街である。それが一般的なのだろうか。そういえば夕方の帰宅ラッシュという言葉もある。
 実際、世の多くの企業は、少しばかりの残業はあると思う。筆者の場合は、8時台に帰宅できれば相当に早いほうだった。
 たいてい10時台。広報室という部署にいたときは社内報なども制作していたので、その閉め切りが近づくと、午前0時をこえることも珍しくなかった。夕方に帰れるなんて夢のまた夢だった。
 おまけに朝が早い。無理して早朝に起きていた。もっと遅くても間に合うのだが、なにが嫌いかって、筆者は混雑ほど嫌いなものはないので、満員電車を避けるために早朝から出勤し、会社の近くの喫茶店で時間を潰していたのである。そこで読書しながらモーニングなどを食し、みんなが来る時間に会社に入っていた。
 ひとによって必要な睡眠時間はちがう。筆者は7時間から8時間ほど睡眠が必要なので、寝不足になり、当然、仕事にも影響した。
 いつも覇気がなかったように思う。そして、いつも頭痛薬を携帯していた。いま思えば最悪の時期だった。
 ついでに言うと、筆者はもうそのころには江口師範と出会っており、極真の道場にも学生時代に通い始めていたのだが、就職してからいったん辞めている。
 だから社会人になって道場から離れてしまう人の気持ちはよくわかる。ハードワークをこなしながらだと、なかなか稽古できるものではない。筆者など疲れが残っていて、休日は休んでいたかった。それだけに週1でも休日に稽古している人は立派だと思う。




2020.10.1

第四百十五回 海舟 VS 諭吉 

 ときは幕末。
 江戸城あけ渡しの際である。
 官軍(薩長)にしてみれば、戦争は必至。革命には流血が必要だ、これまでの最高権力者(徳川慶喜)を斬首せよ! 大江戸八百八町は火の海だ! となるところだったのが、幕府側の傑物・勝海舟と、官軍の大将・西郷隆盛の話し合いで、世界戦史にも稀な無血開城という形で決着がついたのである。
 さて、これに対して異を唱えたのが、明治最大の知性の一人にして慶應義塾の創始者でもある福澤諭吉。
 諭吉は『痩せ我慢の説』で、戦わずして和議を進めた海舟(と榎本武揚)に異論をふっかけている。すなわち、相手の軍事力にあっさり与して江戸城を開け渡すなど、幕軍としてするべきでななく、徹底的に戦うべきだったのではないか、と。それが諭吉のいう「痩せ我慢」であり、その意地を貫き通すことで、のちの国家としての観念的な礎が築かれる、つまり「主体を譲らなかった」という意識が国民の中に残る、という意味だと思う。
 諭吉が送ったのは私信であり、海舟の功績を十二分に評価した上での問答で、海舟は「評価は自分のすることではなく、人にまかせる」という意味の大人の対応をしている。
 ちなみに、この二人は、もともと折り合いが悪い。
 というのは、咸臨丸の艦長だった勝が、幕府の立場としては下級役人であり、遣欧使節の咸臨丸の中では木村攝津守の下につかなければならなかったことが腹に据えかね、航海中は船に酔ったことにしてほとんど顔を出さなかったのだ。
 一方、咸臨丸には福沢諭吉も乗っていた。彼は木村攝津守の特別のはからいによって乗せてもらっていたので、当然のことながら木村には恩義を感じ、勝の態度に反感を抱いていたのである。
 読者はどう思うだろうか。筆者はこれに関し、答が出ていない。幕末の勝の決断から後世への因果関係が明確にできないので、大胆な仮想のシミュレートができないのである。
 ただ、主体をなくした日本政府の外交が現在までも糸を引いているとしたら、福沢諭吉の考えのほうが正しかったように思える。西郷も最初はその考えだったのだろう。
 しかし、それは大局的・長期的・歴史的な観点であって、実際に幕末当時の江戸にいたなら、海舟の判断を非難することはできない。結局、答は出ないのだ。
 勝が言うように、福沢は学者・思想家であり、動乱期の革命家だった勝海舟と同列に比較すること自体がナンセンスともいえる。榎本武揚については、五稜郭で戦死した土方歳三と比べて、英雄像としては格段に劣ってしまう。
 ちなみに、勝海舟の著書(というか語り聞きをまとめた)『氷川清話』も、福沢諭吉の自伝『福翁自伝』も筆者は読んだが、どちらも相当に面白かった。
 あえて好みで言うなら、筆者はやはり福沢諭吉のほうが好きだ。いろいろな意味で、勝海舟よりも。もちろん榎本武揚よりも。
 そう、いろいろな意味で「福沢諭吉」が好きだ。……野口英世よりも。樋口一葉よりも。




2020.9.24

第四百十四回 久しぶりの飲み会 

 まずは、このブログの過去の内容に関して。
 第405回の『ツキのない日』。アジアジの説によると、あれは実は悪運ではなく、逆についていたのだと。
 あのままスムーズに行けば、とんでもない災難に出会うところだったが、幸運がそうさせなかったのだという解釈。なるほど、そういう考え方もあるのかと思った。
 たしかに、どっちにしろ偶然にしては現象が連続しすぎていて、ひとつの方角に向かわせない「意志」を感じるほどだった。
 それから、第406回の『「必ず来るぞ」とヒーローが断言』。
 よく考えてみると、「必ず来るぞ」はバロム1が言ったとはかぎらない。ほかの誰でも言えるのである(無責任なことこの上ないが)。
 さてさて、そんなことはどうでもいい。
 コロナ禍以来、店でお酒を飲むことができなくなって久しい。だが国分寺界隈の居酒屋でも、(通りすがりに中が見えるのだが)けっこう繁盛している。客たちは、至近距離で、マスクをせず、面と向かって、短くない時間、互いに飛沫を飛ばし合っているようだ。まさか空手家の皆さんの中に、そんな油断をする方はいらっしゃらないだろう。
 とはいっても居酒屋に行く気持ちはイタイほどわかる。筆者も店で飲みたいのだから。
 でも、上記のような隙だらけの飲み方はしたくない。だが(逆接の連続)コロナ禍が収束するまで気長に待ってもいられない。
 そこで、道場飲みが企画されたのだ。窓を開け放った道場で、互いに間隔をあけて飲む。お酒とつまみをスーパーで買ってくれば、店で飲むよりずっと安くあがる。参加者は江口師範とアジアジと筆者の3人だけ。長机を「コ」の字型に並べて飲んだ。
 筆者はZoomの仕事があったので、夕方からのスタートにしていただいたのだが、恐れ多いことに師範とアジアジで先にセッティングされていたのである。
 某スーパーにしか売られていないその食材が、非常に豊富。バラエティーに富んでいるだけでなく、美味しくて、レアで、しかも栄養のバランスが考えられている。
 筆者など、惣菜を買いに行ったらギョウザや唐揚げなどをつい選んでしまうが、こういうチョイスは江口師範を信頼してお任せして間違いないとつくづく感じる。いやいや、本当は師範のお手を煩わせてはならず、自分とアジアジで用意しなければならないのだが、それだけの知識がないのである。
 それにしても、こうやって男だけでバカ話をしながら学生時代のような感覚で飲むお酒は美味しく、楽しい。いい歳をして最後の方は記憶が飛んでおり、何時にお開きになったのかもわからない。道場に泊まるアジアジが床に転がったシーンは覚えている。筆者は記憶がないまま「自動操縦」で家に帰って、コンタクトをつけたまま寝ていた。
 なにか失礼はなかったか心配だ。片づけなどを師範お一人に任せるようなことはなかっただろうか。翌朝、靴下が片方だけ見つかったそうだが、たぶん筆者のものだ。なぜ片方だけ脱いだのかわからない。




2020.9.17

第四百十三回 4だ 

 で、結局、『Ⅲ』と『4』のどっちが良かったかというと、筆者は『4』のほうだ。
 さすがに深作欣二はエンターテイナーで、冒頭からラストシーンまでまったく飽きさせない。旗本愚連隊などという珍妙な悪者集団も登場して華を添えている。
 旗本愚連隊というのは、身分も金もある武家のボンクラ息子たちで、カラフルな衣を着て、髪まで原色に染めて馬にまたがり(モヒカンまでいる)、貧しい区画を乗り回してそこの人々の生活を荒らすという悪役だ。
 さらにこの作品、千葉真一が子連れの仕事人(文七)として出演しており、蟹江敬三が扮する凄腕の殺し屋(九蔵)と準クライマックスで対決する。
 文七の娘で、相楽ハル子も出演している。意外にも(と言ったら失礼だが)演技力のある女優さんなのだ。添い寝しているときに娘である彼女が「おとう」を男性として認識し、じっと見つめているシーンが秀逸な演出だったが、その後がやり過ぎで台なしになっている。
 敵側のラスボスが奥田右京亮(真田広之)。こうしてみると豪華キャストだ。右京亮は新任の若き奉行で主水の上司という設定だが、じつは巨悪の大元であり、仕事人の主水と最後は対決することになる(以下、ネタバレがあります)。
 右京亮が従えている若き小姓衆は、きらびやかな衣装をまとい、顔を白く塗っていて、華やかだが薄気味悪い。『宇宙刑事シャイダー』でアニーを演じた森永奈緒美もこの中にいる(……ということを知っている筆者も筆者だ)。
 上役の雅楽頭(成田三樹夫)の酒に毒をもり、最後に右京亮が豹変して「安心して、早いとこ死んじゃえ死んじゃえ」と言う。この脚本からして時代劇ばなれしている。
 右京亮と小姓衆は、口から血を滴らせて苦しむ成田三樹夫を囲んで、まるでクラスで集団いじめをするように「しーね、しーね、しーね」と連呼する。成田三樹夫がガクッと息絶えるのに合わせて、「しーね、しーね」の声が徐々に小さくなり、やがてやむ。
 そのとき、トランペットの音楽とともに中村主水が現れる。
「よう、ずいぶん遅かったじゃん」と余裕の右京亮。
「てめえら、歩いたあとにいくつ死体を転がしゃあ気がすむんだ」
 主水が凄むと、右京亮は「ふふん、なに気取ってんだよ」と現代の言葉で笑い飛ばし、小姓たちも爆笑する。筆者がこの映画を初めて観たとき、ここで主水の危機を感じた。
 いつもなら主水のセリフに対し、悪人たちは「なにぃ」と怒り、本気で身がまえるのだが、そうはならないのだ。主水のペースにならない。いつもと違う。
 右京亮は真田広之が演じているので身のこなしが軽く、薙刀を振りまわすアクションも鮮やかで、上司というだけでなく、身体能力の面でも強敵だ。薙刀をかわした主水に「ふん、やるじゃん」とハマ言葉を返し、薙刀の勢いに主水は防戦一方になる。
 が、右京亮はいきなり銃で撃たれ、「そういうのアリかよ!」と言って倒れる。どこまでも時代劇とは思えないセリフだが、『仕切人』や『剣劇人』のように白けることはなく、むしろ脚本は非常にすぐれていると思う。深作欣二監督のセンスだろう。ラストシーンもいい。
 豪華キャストの分、秀たちレギュラー仕事人の影が薄くなっているのは仕方ないが。




2020.9.10

第四百十二回 Ⅲか4か 

 必殺シリーズはテレビ版がいい。映画やスペシャル版よりも、45分枠の中で完結するほうが展開が早く、ダレない。
 ファンとしては映画にも期待していたのだが、いざ見てみると、どうやったらこんなにひどく作れるのだろうと思うほど低レベルで、もう話にならないゴミ映画だった。すなわち劇場版の1作目『THE HISSATSU』と2作目『ブラウ館の怪物たち』のことだが、ともに論外。あまりにひどく、勘違いしたふざけっぷりに呆れ果てるばかり。
 6作目の『必殺! 主水死す』は「主水が死んでしまうのか」と気になって映画館へ足を運んだが、これも面白かった記憶がない。筆者も若かった。
 ところが、3作目と4作目は評判がいい。劇場版の最高傑作が、この両者で意見が分かれているらしい。3作目の正しいタイトルは『必殺!Ⅲ 裏か表か』で、4作目は『必殺4 恨みはらします』。3作目だけ、なぜかローマ数字なのである。
 3作目には若き日の思い出がある。ずっと昔、多摩センターの屋外駐車場にスクリーンが設けられていて、駐車している車の中から映画を観ることができた。
 屋外だからスクリーンも開放されていて、誰でも観ることができる。けれど音声は聞こえない。駐車場の利用者だけに受信機が渡されるという仕組みなのだろう。世の中そう甘くない。
 ある夏の夜、10代後半だった筆者は丘の上に座って屋外スクリーンを見ていた。
 音声ぬきで画面だけを見ていたのだが、もちろんわけがわからない。ストーリーなど、まったくつかめていない。当時は人と一緒に住んでいて、その日の筆者には帰りたくない事情があった。そして、そのとき上映していた映画が『必殺!Ⅲ 裏か表か』だったのだ。
 必殺ファンとしては、車の中で視聴できる人が羨ましかった。それだけに今回、『Ⅲ』と『4』のDVDを買って視聴した日にゃあ、昔日の晴らせぬ鬱憤を一挙に晴らしたような感慨があった(このあとネタバレがあるので、未視聴の方はご注意を)。
『Ⅲ』では、柴俊夫、笑福亭鶴瓶、京本政樹と、仕事人が三人も殉職する。組紐屋の竜を演じる京本政樹はイケメンの人気キャラで、こうもあっさりと姿を消したのが意外だった。
 鶴瓶などは滅多斬りにされたあげく、竿の先に生首をかかげられるという、かつてない無残な死にざまを遂げる。昔、鶴瓶がトーク番組でこの映画について「貝の中に入っていたところを発見される」と話し、上岡龍太郞が「君が入れるほどの大きな貝があるのか」と返していたが、ゴミ捨て場の大量の貝殻の中に隠れていたのだった。
 監督は工藤栄一で、テレビ版の必殺シリーズで数々の名作を送り出してきた名匠だけに、ファンとしては嬉しかったが、この映画では新しい試みに挑戦していたのだろう。
 つまり、一人一殺ならあざやかなテクニックで闇に葬る仕事人でも、金の力や集団には歯が立たないという一面だ。きわめて現実的だが、白けてしまうというマイナス面もある。
 喉仏を砕くほどの力技を持つ壱(柴俊夫)や錺職人の秀(三田村邦彦)が、多勢に無勢で追いつめられ、握力やかんざしという本来の武器を捨てて刀を使うなど、かつてないリアルな展開ではあるが、ファンが期待しているのは「お約束」の殺陣によるカタルシスなのだ。




2020.9.3

第四百十一回 見よ 

 コロナストレスの反動なのか、暑いのにわざわざ長い上着をはおって、女性の前で下半身を露出するヘンタイが現れたという話を聞いた。それで思い出したのだが、筆者の小学生時代、地元でやはりそれとよく似た事件が発生して話題になったことがある。近所のおばさんが、夜の路上で露出魔に遭遇したのである。
「見よ、見よ」と、そのヘンタイは言ったそうな。
 そして、おばさんは気丈にも「見るか、そんなもん!」と一喝してやったらしい。
 おばさんの言う「そんなもん」が、果たしてどんなもんだったかは知るよしもないが、「そんな」と言ったからには一度見ているのではないかと思われる。ともかく、筆者は子ども心に、ヘンタイの口にした「見よ」というひと言が面白かった。  文法的にいうと、動詞「見る」の命令形だが、「見ろ」でも「見なさい」でもなく、活用語尾が「よ」なのである。格調の高い文語で、それだけに見せようとしているモノとのギャップが甚だしいのだが、もちろん子どもの頃はそこまで考えない。「なんで『見ろ』じゃないんだ」と、ただ「語感的」におかしかった。
 さて、それから時は流れて、筆者が中学生の頃である。
 国語の授業で詩を学んだのだが、教科書に石川啄木の『飛行機』と題された一編の詩が載っていた。
 こんな詩だった。


『飛行機』石川啄木

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

給士づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の部屋にゐて、
ひとりせっせとリイダアの獨學をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。


 誰が天才かといって、やはり石川啄木こそ真の天才歌人だろうと筆者などは思うのだが、せっかくのすぐれた詩を読みながら、このときの筆者は給士づとめの少年の休日に思いを馳せるでもなく、教室の一画でおそらくは一人だけまったく別のことを思い出していたのである。




2020.8.27

第四百十回 はっきり言うかどうか 

 日本各地の領国ごとに、その地に住む人々の気風を表した室町時代末期の書物『国人記』『新国人記』(岩波文庫)によると、筆者の出身地である紀伊(和歌山)は「欲の深きこと、日本にならぶ国あるまじ」「実義露もなし」「意地強し」などと、ボロクソだ。
「上を尊ばない」という意味のことも書かれているが、これが事実なら、雑賀孫一で知られる傭兵軍団の雑賀衆たちが、地頭の畠山氏を無視して勝手に自治政治をおこなっていた背景があるのではないかと思う。『国人記』の成立時期とも一致している。
 紀州人は偏屈とも言われるが、朋友のアジアジによると筆者も偏屈であるらしい。
 でも、上の立場の人を尊んでいないとは思わない。でも(逆接2連続)上役から疎んじられる面もあるように思えるのは、余計なことを口にしているからだと考えられる。
 日本では、相手のまちがいに気づいても指摘しないのがマナーなのだ。それを遠慮なく言ってしまったり、自分の意見をはっきり口に出すと浮いてしまう(別にいいが)。
 だが、それは大事な人に対してであって、どうでもいいような相手には言わない。
 たとえば、前回書いたジムの担当者などには不満をいっさい口にしなかった。筆者が学生時代に少しだけ通った高田馬場駅前のジムでは、担当者が懇切丁寧に教えてくれたのだが、ジムによるのだろう。国分寺の方は(営業には熱心なのに)入ったとたん見事に放置されていた。こうなると自分でスタッフを捕まえてマシンの使い方を教えてもらわないといけない。
 そしたら、なんと、偶然にも筆者の昔の塾講師時代に生徒だった子がトレーナーになっていたのだ。小学生の頃はサイボーグ009のように前髪をカーブさせた女の子だったが、いつの間にか20代の女性になって働いていた。で、彼女に話して、知らないマシンの使い方を教わった。「負うた子に」ではないが、教えた子に教えられた。ちなみに「中学受験はしてよかった。自分に子どもができたらさせたい」と彼女は話していた。
 筆者はしかし、ジムのような場所がどうも好きではないようだ。神経質と言われても仕方ないが、不衛生に感じる。プールでも、見知らぬオヤジが息継ぎで顔を上げた時に、口から水を吐き出しているのを見て以来、二度と利用しなかった。
 コロナ騒動の初期には、フィットネスクラブが感染源という情報が流れたが、たしかに密閉された空間で大勢が呼吸を荒くしているのだから、クラスターが発生するのも無理はない。
 それ以前に、冬期になると、しょっちゅう「トレーナーの体調不良につき、○○クラスの担当が変わります」というメールが届いていたのである。それがあまりに頻繁だったので、「ははあ、トレーナーのあいだでインフルエンザが流行ってるんだな」と思い、足が遠のいていた。そしてしばらく行かないうちに、元の教え子も転勤していた。
 最初の担当者に不満を言わなかったのは「よくなってもらおうと思わない」からだ。そのままでいろ、と思う。応対の悪い店でも同じ。忠告とは、そもそも良くするためのものなのだ。
 一方で、危険だと思うのは、極真の人間関係である。
 縦社会だけに、誰も不満や疑問を口にしない。好きな空手の世界であり、好きな先生や先輩が相手であっても言えない。ではどうなるかというと、我慢をつづけるか、黙って辞めていくしかなくなる。武道の世界には、そういうことがある。




2020.8.20

第四百九回 自分で考えたトレーニング 

 道場の稽古とは別に、筋トレをするためにフィットネスクラブ等に通っている方もいらっしゃるだろう。
 筆者も国分寺の某所に通っていたが、2か月ほど前に退会した。
 路上を走ればお金はかからないが、信号やら何やらで小まめに止まらないといけないし、何よりも走りながら考えごとに集中できるという点で、筆者はマシンで走るほうが良かった。
 ペースは速くない。70分かけて10キロ走っていたので、平均して時速7キロ。基本はゆっくりペースだが、途中で時速10キロにあげて心拍数を高めた。
 筋トレは、上半身が不十分だった。脚のほうは、バーベルだとスクワットに当たるマシンがあって、それで一番下の重さまでいった。いつも余裕を感じていたので、利用するたびにウエイトのバーを10キロ単位で下げていくと、最重量までできたのである。
 10回を3セット。楽ではなかったが無理でもなかった。いつの間に鍛えられたのか知らないが、一番下の重量をこなせたのなら、脚力は平均以上と考えていいだろう。このブログでいつか書いたが、ケツの筋肉も強靱であるらしく、これもなぜ鍛えられたのか自覚がない。
 一方で、極真の門下生でありながら腕のほうが心許なく、平均程度しかないように思えた。いや、平均がどの程度か知らないが、筆者の身体は、胴体に比較すると腕が細く見えて格好悪いのだ。辞めたのなら、自宅で拳立てをするしかないだろう。
 なぜ辞めたかというと、まず最近はたいして通っていなかったから。
 だが、退会を迷ったときに最後の後押しをしたのは、意外にも初回の印象だった。
 入会すればマシンの使い方を教える担当者がつくのだが、受付で「もう連絡していますので、下に降りてくだされば担当者が待っています」と言われたのに、行ってみると誰も待っていなかったのだ。
 で、受けつけに戻ってそのことを話すと、もう一度連絡され、今度は坊主頭の担当者が待っていた。筆者は名前を名乗って「よろしくお願いします」と言ったが、担当者はそれに対して答えなかった。また最初に待っていなかったことに対しても、ひと言の詫びもなかった。
 この時点で「ここ失敗だった」と思った。ちなみにその担当者は利用者を選ぶらしく、女性には懇切丁寧に教えているところを見た(モテない証拠だ)。
 もちろんただ一件の事例でしかないが、社員一人一人が会社の看板を背負っているのだから、利用者から見ると三流どころの施設だと判断されても仕方がない。
 それにしても現在の諸要素ではなく、過去のこんな些細なことが辞めるかどうか迷った時に最後の決め手になるのだから、第一印象はあなどれない。案外こういうことはあると思う。
 さて、辞めたとなると(それにコロナ禍で道場での自主トレもできないとなると)どうやって鍛錬するか、自分で考えなければならなくなった。
 筆者は出不精で、なるべく外に出たくない。有酸素運動を優先させるべき。空手の技術も向上させたい。で、これらをすべて補える一石三鳥のトレーニングを始めた。
 どんな練習かは詳述しないし、今後どれだけつづくかもわからないが、自宅でパッと始められる方法なのだ。人それぞれに課題は違う。自分に合った鍛錬を考えてみるにかぎる。




2020.8.14

第四百八回 横溝正史シリーズ 

 について書くのは初めてだろうか。
 先日、書店で横溝正史の著作(角川文庫)が昔のままの装丁で並べられているのを見て、衝動的に『蝶々殺人事件』、『憑かれた女』、『花髑髏』の3冊を買ってしまった。
 筆者は知らなかったが、テレビドラマで由利麟太郞のシリーズが放送されており、それに合わせての復刊であるらしい。由利麟太郞というのは、金田一耕助よりは出番が少ないが、横溝正史の推理小説に登場する名探偵である。
 筆者らの小学生時代に横溝のブームがあり、市川崑が監督、主演が石坂浩二(金田一耕助)の映画が立て続けに公開されていた。映画もいいが、土曜日の夜にやっていたテレビドラマも良かった。古谷一行が金田一を演じているシリーズで、筆者は全部所有している。古谷一行といっても単発の二時間枠のものではなく、昭和の連続ドラマのほうである。
 このシリーズは、テレビドラマなのに映画用の高価なフィルムを使用しており、それだけに映像は重厚で、デジタルクリアビジョンなど到底およばない深い味わいがあった。といえば必殺シリーズのようだが、それもそのはずで、スタッフが必殺とかぶっているのである。
 茶木みやこが歌う主題歌もいい。『まぼろしの人』は筆者が初めて買ったレコードである。我々の世代は子どもの頃に「初めて買ったレコード」といえば、たいてい『泳げタイヤキくん』なのだが、筆者は横溝正史シリーズの主題歌だったのだ。9歳のときで、それだけ横溝のドラマにはまり、夢中で見ていたのである。
 転校した先の西宮市の書店には、角川文庫の横溝作品が平積みされ、おどろおどろしいイラストで飾られた表紙に、衝撃を受けながらも惹きつけられた。
 『幽霊座』や『壺中美人』、『不死蝶』、青い片腕が落ちている『幻の女』、きわめつけはオバケとしか思えない『仮面舞踏会』など、どれも刺激的だった。
 何度も書店に足を運び、一人で飽きずにそれらを眺めていた。阪急夙川の駅前にあるグリーンタウンという大きなビルの一階、その小さな書店が、いや、わずかな区画の横溝作品のコーナーが、妖しい異世界へといざなう入口だった。必然的な流れでそれらを購入し、読むようになった。筆者が人生で初めて読んだ文庫本は、やはり9歳の時の『獄門島』である。
 今回、復刊された作品は、『憑かれた女』以外は昔読んだものだった。記憶違いかもしれないが、『花髑髏』という中編集の一話『焙烙の刑』に、貝三(かいぞう)という人物が出てきたのを覚えている。
 物語の冒頭、夜の公園で貝三は偶然、男二人の会話を盗み聞きしてしまう。会話の内容は犯罪に関する危険なもので、聞いていることがバレたら貝三の身が危ない。
 筆者は、バレると思った。そして貝三がひどい目に遭うか、もしかしたら殺されるのではないかと思って読んでいた。
 だって、名前が「貝三」なのだ。こんな名前をつけられている登場人物が、作者に愛されているとは思えない。
 わざと奇抜さを狙った奇想小説か実験的作品ならともかく、横溝の場合は(「真珠郎」もそうだが)ごく当たり前のネーミングであるところに特殊な感覚が表れている。



2020.8.6

第四百七回 奇妙なサブタイトル 

 まずは前回の『バロム1』の訂正を。ドルゲが送り出してくるグロテスクな敵たちは「魔神」ではなく「魔人」でした。あしからず。
 それにしても各話のサブタイトルが異様だ。
 初期のころは「○○魔人□□ゲルゲ」というシンプルなものが多かったが、やがて「魔人キノコルゲはうしろからくる!」とか「魔人ハサミルゲが待ちぶせて切る!!」、「魔人クチビルゲがバロム・1を食う!!」といったように、主語・述語のパターンに変化している。ちなみに「発狂魔人ミイラルゲ」は現在ならNGだろう。
 このコロナ禍の時節に、「恐怖の細菌魔人イカゲルゲ」や「魔人ウロコルゲがドルゲ菌をバラまく!!」などを目にすると、細菌とウイルスは別物とはいえ穏やかでない。つくづく娯楽番組というものは平和な時期にこそ楽しめるものなのだと感じ入る。
 不気味さを狙っているにしても「魔人ノウゲルゲが脳波を吸う!!」や「魔人クビゲルゲが窓からのぞく!!」、「魔人トゲゲルゲが死の山へまねく!!」など、見るからに嫌なタイトルがある。
 でも、一番サイアクなのは、なんといっても「魔人ウミウシゲが君をアントマンにする」だろう。これだけはもっとも嫌で、冗談じゃない、と思う。
 さて、『バロム1』からまったく話は変わるが、奇妙なサブタイトルといえば、昔『京都?指令 ザ・新撰組』という番組があった。マイナーなTVドラマだが、ご存じだろうか。
 時代設定は現代、舞台は京都で、新撰組の子孫というわけではないはずだが、とにかく土方が古谷一行で、沖田が京本政樹で……新撰組が現代に甦るというのだ。どんな理由で、どんな敵と戦っていたのかよく覚えていないのだが、幕末の京都で攘夷派の浪士を取り締まっていたように「京都の治安を守る新撰組」ということらしい。
 最後はたいていヤクザの組と戦いになり、「お前ら、どこの『組』の者じゃ」ときかれ、堂々と「新撰組だ」と答えていたのを覚えている。
 このドラマを筆者はあまり真剣に見ていなかったが、放送日の朝に新聞のテレビ欄でサブタイトルを見ては爆笑し、面白がって友人と話題にしていた。たとえばこんなふうだ。
「苔之寺の苔を石けん水で洗うぞ」
「金閣寺を真っ赤に塗るぞ」
「修学旅行の女子高生を丸坊主にするぞ」
「娘を大文字焼きにするぞ」
「日本一の学者をサハラ砂漠へ放り出すぞ」
「名僧を釜ゆでにするぞ」
「女子マラソンを猛獣が襲うぞ」
 ……ど、どんな脅迫だ。
 金閣寺を監視していて塗ろうとするところを逮捕すればいいのだし、いくら京都が舞台だからといって何も大文字焼きに掛けることはない。サハラ砂漠まで学者をつれて行ったり、猛獣を手配するのも大変な手間と費用がかかるだろう。ツッコミどころはいくらでもある。
 そんなわけでこの番組、本編よりもサブタイトルのほうが面白かった。




2020.7.30

第四百六回 「必ず来るぞ」とヒーローが断言 

 イカゲルゲが好きだった。第3話に登場するドルゲ魔神だが、再放送のたびに見逃してしまい、悔しい思いをすることしきり。それだけに見たい想いは焦がれるほどつのったが、何度再放送があっても、どうしてもすれ違って見ることができなかった。
 なんのことかって『超人バロム1』の話である。『バロム1』については、このブログでいつか書いているはずなので(2013年の82回だった)、ここでの説明は省かせていただく。
 ようするにイカゲルゲを見たかったのだが、それが最近になって叶った。そうなのだ、DVDを買えば見ることができるのだ。かくして子ども時代からの宿願が果たされたのである。
 第1話も初めて見たが、初期のころはタケシとケンタロウがよく言い争い、スムーズに変身できないというピンチが何度かあった。これは友情をテーマにしているからだろう。
『バロム1』がほかの特撮ヒーローものと一線を画しているのは、敵側の魔神が際だってグロテスクな点である。とくに人体のパーツをモチーフにした魔神たち、クチビルゲやウデゲルゲやノウゲルゲなどは、あまりにシュールで滑稽味さえ生じるほどだが、子ども心には怖かった。トゲゲルゲにいたっては芸術的ですらある。
 今回、第一話から見てわかったのは、敵ボスのドルゲ(往年の室田日出男が出演している)が、はっきり「醜い」と口にして魔神を創造していることだった。最初からそういうコンセプトで造形されているのだから、不気味な見かけになるのは必然なのである。
 OPでもEDでも当時のすすけた風景の中でバロム1が走るシーンがある。空はどんより曇り、道にはゴミが散らかっている。70年代はこうだったのか。マッハロッドがやけにカッコいいと感じたのは、幼少の筆者が生まれて初めてスローモーション映像を見たせいかもしれない。
 OPには「みんなで呼ぼうバロム1、かならず来るぞバロム1」という歌詞がある。
『花の子ルンルン』では「いつかはあなたの住む街へ行くかもしれません」だったが、こちらは「かならず来るぞ」なのだ。「かもしれません」と「かならず」には天地の差があり、しかもヒーローが断言しているのである。マッハロッドに変わると思い、バロム1ベルトのボップを投げて壊した男児が何人もいたのだから、本気で呼んだ奴がいても不思議ではない。
 第一話ではタケシとケンタロウが思いを寄せるクラスメイトの須崎さんという女の子が登場するのだが、二人とも彼女のことを「須崎君」と呼んでいるのが時代を感じさせた。今どき小学生の男子が女子を「君づけ」で呼んだら、何の冗談かと笑われるだろう。
 それと、初期にはアントマンが魔神をジープに乗せて走るシーンが何度か見られたが、大人である筆者は「アントマン、誰に運転を習ったんだ」というツッコミを禁じ得なかった。
 車を運転するからには、まずキーを差しこんでエンジンをかけて、どれがアクセルでどれがブレーキで、という基本的な手順と知識を習得しなければならない。
 アントマンといってもMARVELのヒーローではなく、『仮面ライダー』でいえばショッカーに当たる敵側の兵隊役で、全身が白と黒のぐるぐる巻きのデザインなのだ。まさかその顔で教習所に通ったはずはないだろう。
 閉鎖的なドルゲの地下世界でアントマンに運転を教えたのは誰か、ということになる。またアントマンがそれを教わっているところを想像すると、微笑ましくもなってくるのである。




2020.7.23

第四百五回 ツキのない日 

 ツキとか運とか言われる不可思議なものは間違いなく存在する。
 数年前のことだ。季節はちょうど今頃だった。
 筆者は昼に人と会う約束があったので、出勤前に都心に出かけた。
 家を出るとき、折りたたみ傘をカバンに入れるかどうかで迷ったが、ちょうど玄関のドアをあけた時だったので、戻るのが面倒でそのまま出かけた。
 筆者はこれでも現場には早く到着する。稽古でも早く道場についてストレッチなどに時間を取りたいし、職場にも平均よりかなり早く到着しておきたいほうだ。時間的な余裕が十分にないと落ち着かない性分なのである(そのかわり帰るのは早い)。
 職場のある駅には、仕事開始の3時間前に着く予定だった。1時間ほど喫茶店で読書などをして、職場には2時間前に入って雑用を片づけておこうと思った。
 さて、用事が済み、その後で近くの商業ビルに立ち寄っていると、帰り際に玄関の手前で滝のような土砂降りになった。狙ったようなタイミングである。玄関から出て行けず、雨宿りしていたが、天候は荒れるばかり。雷鳴までとどろいた。
 30分ほどして、ようやく小降りになったので、最寄りの駅へ歩いていった。
 利用できる路線は、ABの2種類あり、70円多くかかるが乗り換えのいらないA線にしようかどうか迷った。結果、B線にしたのだが、渋谷で乗り換えるかどうかで迷った。あとの祭りだが、もし乗り換えていればトラブルに巻き込まれることはなかったのだ。
 B線に雷が落ちて故障が発生。電車が立ち往生してしまったのである。
 十分すぎるほど時間の余裕をみていたが、電車がまったく動かなければ手も足も出ない。会社に連絡して、間に合わなかったときの手配をしてもらった。
 結果、電車は2時間も足止めとなった。ビルの玄関まで来たときの突然の土砂降りといい、なんなのだ、この狙ったような巡り合わせは。
 ノロノロ運転でJ駅まで来ると、向かいのホームに急行が来た。当然だが少しでも早く職場に着きたかったので、そっちに乗り換えた。
 そしたら、なんてことか、それまで乗っていた各駅停車が先に発車したのだ。
「この列車は、当駅から各駅停車になります」
 と車内アナウンスが流れた。なんじゃそりゃ。それなら先に通達しろ。こっちはわざわざ混んでいるうえ遅い列車に乗り換えてしまったではないか。
 それだけではない。目的地のひとつ手前の駅で、どこかのバカが線路に入って、またもや運転見合わせになった。
 こんな日もあるのだ。ここまで悪運が重なると、非科学的だが、もう何者かの「意志」が作用しているとしか思えなくなる。J駅で急行に乗りかえなければ、いや、A路線を選択していれば、B線でも渋谷で乗り換えていれば……いや、そもそも出がけに折りたたみ傘を入れていれば、この日の不運はすべて回避できたのだ。判断がことごとく裏目に出た日だった。
 一方で、進路にある信号機がすべて青だったり、駅のホームに下りるとお迎えのようなタイミングで電車が来たり、飛ぶがごとくスムーズに進む日もあるから不思議である。




2020.7.16

第四百四回 退屈な映画をご紹介 

 面白かった映画ではなく、なぜか退屈だった映画の紹介である。
 たとえば、『E.T』。筆者の少年時代に話題になった作品だが、ずっと縁がなく、今年になって初めて鑑賞した。
 感想はというと、退屈であくびが出そうになった。いや、実際に何度も出た。
 当時見ていれば面白いと感じたかもしれない。何を見ても面白かった年齢だから。でも今はどこがいいのかわからなかった。
『宇宙戦争』もそうだったが、筆者はスピルバーグ作品に登場するクリーチャーの造形に魅力を感じない。地球より高い科学力を持っているのに、発達した頭脳を保護する毛髪がなく、食物を手づかみで食い、情緒があるはずなのに衣類をまとわず裸でウロウロしている。そのあたりで鼻白んでしまった。
 自転車で空を駆け、月を横切る有名なシーンでも、タイヤが接地していないのにペダルをこいで進んでいるので、「推進力は何だろう」などと考えていた。こうなるともう楽しむどころではなくなる。
 でも、大ヒット作なので、筆者の感覚がズレているのだろう。大勢が楽しければいいのだ。筆者はこの作品で唯一いいと思ったのは、宇宙船である。
『ジュラシック・パーク2/ロストワールド』も、シリーズ5作品の中で格段に劣っていると思う。登場人物たちが、この状況でなぜこんなことをするのかという、理解不可能なほど頭の悪い行動を取っているのだ。
 それに、よく転び、よく落ちる。見ていて苛々するほど足をもつれさせ、なにかというと高いところからぶら下がるので、ハラハラするより白けてしまう。カットにも締まりがなく、意味のない顔面のアップが何秒も続く。切れ味の悪い包丁のような映画である。
『巨大生物の島』。といってもハリーハウゼンが特撮を手がけた「SF」がついている方ではない。カニではなくネズミが出てくる方、といったらおわかりになるだろうか。
 SF好きならタイトルに惹かれて見てしまい、そしてガッカリすると思う。
 違法な化学工場の廃液によって、その島の生物が巨大化するという70年代らしい設定は懐かしいのだが、肝心の巨大生物が、ただのアップなのである。
 蜂だけは黎明期のCGを使った特撮だが、迫力にかけるのなんの。本当に巨大蜂が襲ってきたら、もっと厄介で恐ろしいはずだ。ニワトリやネズミなどは実物を大写しにしており、人間と戦う場面では合成まるわかりの撮影になっている。しかもネズミの出番が多すぎだ。もっと多様な生物を出して欲しかった。
 しかし、この映画、子どもの頃にテレビの洋画劇場で見た時は面白かったのだ。暗示的なストップモーションで終わるラストも、それなりに衝撃だった。
   筆者の記憶では、主人公たちが島に着いた最初の頃、湖で巨大な魚が跳ねるのを目撃して「今のはなんだ……」と驚くシーンがあったように思うのだが、今年買ったDVDで見るとそんな場面はなかった。でも、たしかにあったように思う。市販のDVDがテレビ放送版より短縮されているはずがないし、やはり記憶違いなのだろうか。




2020.7.9

第四百三回 ゴブリンは仕事をしたかった 

神戸の高校で起こった正門の生徒圧死事件から、今年の7月6日でちょうど30年を迎えたという。朝の正門での遅刻チェックで、登校時刻ギリギリに駆け込んできた女子生徒が、教諭の閉めた鉄の門に頭を挟まれ、死亡するという事故が起きたのである。筆者はこの事件に持論はないが、ただ久しぶりに自分の中学校時代の経験を思い出した。
 どこの学校にも門限というのはある。筆者らが通っていた中学校にも、帰宅の最終ラインである「絶対下校時」というものがあった。クラブ活動などが長引いても、この絶対下校時のもの悲しいメロディーが鳴り出すと片づけを迫られ、「絶対下校時になりました」というアナウンスと共に帰宅を促されるのである。
 中1のある日、やむを得ない所用で筆者は下校のタイミングが遅れてしまった。
 やむを得なくても規則は規則である。正門には風紀委員の生徒が待機し、生徒の帰宅を見計らって、門を閉めることになっている。この時刻を過ぎると、風紀委員のノートに名前を記入され、正門ではなく横の小門をくぐって外に出なければならない。また、担任の先生に報告されて反省が求められる。
 筆者と友人が正門の見えるところに出た時、門はまだ閉められていなかった。
 よかった、間に合った、と思い、二人で正門に向けてダッシュした。
 ところが、走り寄る筆者らの姿を見た風紀委員が、その瞬間、思い出したように急いで門を閉めようとしたのである。
 その風紀委員はコロコロした体型の女子生徒で、黒縁メガネをかけ、仕事に燃えてチャキチャキと動き回っているところから、筆者らは陰で彼女を「ゴブリン」と呼んでいた。
 風紀委員の仕事として、時刻になったら門を閉めるのはわかる。だが、まだ音楽は鳴っていたし、それまで棒立ちしていたくせに、筆者らが走ってくるのを見たとたん、急にあわてて門を閉め始めるとは何事か。あまりにも露骨で意図的なイジワルじゃないか。
 と思い、友人と二人で正門を乗りこえて外に出た。風紀委員の見ている前でそれをやった。
 門の外では部活の仲間がまだ帰らず集まっていて「あの二人、つかまるぞ」という興味を持って成り行きを見守っており、筆者らが門をこえると歓声をあげた。うしろではゴブリンが「戻りなさい!」と叫んでいたが、もちろん戻らない。清々した思いで帰宅した。
 さて、その翌朝のこと。校庭で学年集会があり、先生の話の後で、黒縁メガネに固太りの女子生徒が意気込んだ様子で朝礼台にあがった。見れば、あのゴブリンではないか。
「風紀委員から話があります」と彼女は言った。そして「最近、絶対下校時を守らない生徒が増えて困っています。中には門を乗りこえて逃げるなど、これまでに見られない行動をする人も出てきました」
 と皆の前で話した。同じ部活で、あのとき門の向こうにいた連中が、筆者の体をぐいぐい押して列からはみ出させ、ゴブリンに気づかせようとするので困った。
 今ふり返ると、たぶんゴブリンは風紀委員として「手ごたえのある仕事」がしたかったのではないか、と筆者は思う。また同時に、思春期の女子がほかに情熱を向ける対象がなかったのか、とも思う。




2020.7.2

第四百二回 究極の護身とは? 

 前回、クレームを恐れるなら最初から情報を発信しなければいい、沈黙こそが最大の保身である、というようなことを書いた。
 ただ、それは一種の屁理屈である。空手のディフェンスでいえば、受けやサバキの技術を云々するのではなく、「最初から戦わなければ攻撃をもらわない」と言うに等しい。その一方で「攻撃は最大の防御である」という考えは、情報発信においては当てはまらないように思える。
 ところで、究極の護身といって筆者が思い出すのは、板垣恵介先生の格闘技漫画『グラップラー刃牙』の場面である。
 主要選手の一人として渋川剛気という柔術家が登場するのだが、最大トーナメントの準決勝の場におもむこうとして容易にたどりつけない、というシーンがあるのだ。
 渋川剛気というのは合気柔術の達人であり、選手の中で最高齢で、名前の響きからしても合気道の塩田剛三先生をモデルにしたようなキャラクターである。
 その彼は過去に合気柔術の師(外見が植芝盛平先生に似ている)に真の護身とは何かを質問し、それが身についたなら「己が気づかぬうちに、危機には近づけぬ」という回答を得ていた。
 試合前の控え室で渋川老のメガネが割れる。不吉な敗北の暗示でもある。試合場へ向かう廊下では意味もなく足を滑らせ、何度も尻餅をついてしまう。トシのせいかな、と思ってまた歩こうとすると、今度は通路をふさいで厳重に閉ざされた厚い門の幻覚が眼前に現れる。
 漫画の中の話だから過剰な表現ではあっても、似たようなことが現実にまったくあり得ないとは言い切れない。
 筆者は城西支部長・山田雅稔師範の著書『極真空手に学ぶ能力開発と目標達成』が好きで、二十代の頃はくり返し読んだ。読むとやる気が出たのである。その本の最後の方に山田師範ご自身の不思議な体験が書かれている。ごく簡単にまとめると、山田師範はあるイベントに参加する予定だったが、前日の午後から急に行きたくなくなった。そして、その夜のニュースで、ちょうど午後の同じ頃にイベントの場で大事故が発生していたことを知ったのである。
 似たような経験はないだろうか。筆者は霊感とは無縁の男だが、何年か前、国分寺道場の新年会に行く途中の道で、なんだか行きたくないな、と思ったことがあった。
 虫の知らせというのだろうか、いつも楽しいはずの飲み会なのに不思議な感覚だったが、結局その宴会の最後に、筆者は酔っ払ってふざけたあげく床で後頭部を打ち、再発防止のためにしばらくはヘッドギアをつけなければならなくなったのだ。
 もちろん天災ではなく、自業自得に他ならないのだが、あのときに道場へ行く道で感じた濃厚なマイナスの予感は今でもはっきりと覚えている。
 今度から同じような胸騒ぎを覚えたら、迷わずそれに従うべきだろう。約束していることなら破るわけにはいかないが、可能な限り行動を中止したほうがいい。
 ちなみに上に書いた山田師範の著書を、筆者は二冊買っており、現在は入手困難で欲しがっていたアジアジに一冊あげた。もったいないことをしたものだと、今では後悔している。




2020.6.25

第四百一回 校長先生の話はなぜ退屈なのか 

 守りに徹しているからである。
 社会的な立場上、いいことを言わなければいけないから、校長先生は学校の中で一番の「よい子」でいる必要がある。学校の代表であり、子どもたちに見本を示すべき立場でもあるから無理もない。
 だから朝礼で話す内容も、ウケなど狙わなくていい。うかつに下品な冗談でも口にすれば顰蹙を買ってしまう。話す目的は、生徒を楽しませるとか、伝えるべきことを伝えるとかいう前に、まず保身が大前提であり、それが第一条件になる。
 無論、そんな言葉は子どもの心に響かない。聞いていて退屈なだけだ。たとえクレームぎりぎりの際どさがあっても、本心から出た生の言葉こそが子どものハートに訴えるのだ。
 これは文章でも変わらない。筆者は道場の職員ではないが、この道場ブログでも同じことがいえる。しかし、それなら最初から発信しなければいいわけで、沈黙こそが最大の保身ではないか、とも思えてくる。
 筆者などは時代の流れを後追いしているようなもので、「このぐらいは冗談ですむだろう」と思っていることが、世間では顰蹙、ということが少なくない。以前は気にしなかったが、最近はそれを意識して、言動に慎重になってきた。
 実生活でもそうだし、このブログでも危険なネタは避けるようになっている。たとえば本や映画の感想などがつづいているのは、それが無難だからである。
 しかし、読む方々にとって、それで面白いのだろうか。否。保身にはしった情報は「校長先生の講話」と同じで、つまらないものだ。かといって、毎回毎回、読者の啓蒙になるような内容を発信できるほど豊かな道徳的土壌は、筆者にはない。駄文だから毎週書いて400回以上つづいたのである。
 だが、無難な内容を取捨選択しながら、退屈な文章を発信しつづけるブログに意味があるのだろうか。
 面白いと思えるネタがないわけではない。筆者には特殊な経験がある。そんなことぐらい男三十をこえれば誰でもひとつやふたつはあるだろうが、それにしても客観視に努めて異様な経験を少なからずしている。また、述べれば反感を買いそうな意見もある。
 でも、それらは書くわけにいかない。書けば驚かれることは間違いない。関係者にも迷惑がかかる。親しい相手に個人的には話せても、この場では封印しておくべきである。
 よって、これからもしばらくは無難なネタを選んでいくが、自分が面白くないと思っているものを提供するのも気が引けるので、このぐらいは大丈夫だろうというグレーゾーンの話を混ぜていくことにする。
 ただ、問題はそのグレーゾーンなのである。
 これは完全にアウト! というブラックなエピソードならわかる。判断に迷うことなく最初から切り捨てられるが、グレーゾーンの境界を誤ってしまえば、結局は同じことだ。
 このブログも400回をこえた。師範に相談して、とりあえず500回まではつづけていくつもりだが、それより早く打ち切りになる可能性も十分考えられる。




2020.6.18

第四百回 (思わず)自分を見つめ直す 

 世の中がコロナ騒動で大変だというのに、昭和アニメがどうしたとかマリリンとかソレカラソレカラとか、このブログの作者は脳天気なことよのう、という意味のメールがアジアジから届いたが、賢明な方はお察しのとおり、大変な時だからこそ深刻な話題を避けていたのである。
 でも、アジアジをはじめ賢明でない方から誤解を受けるのであれば、この際、たまには真面目な話題に触れるのもいいかもしれない。
 さて、ステイホームの期間、筆者は四国で過ごした日々を思い出すことがあった。
 四国八十八カ所を巡礼するお遍路さんの経験を、過去にこのブログで何回か書いた。歩き遍路で、基本姿勢としては旅館にも泊まらず、夕方になると適当な寝場所を見つけ、背負ったテントを組み立てて野宿をしていた日々だ。40日近くそうやって過ごしたので、今でも般若心経を暗唱できる。
 で、前にも書いたかもしれないが、ある日、食あたりになった。山の中なのでケイタイの電波も届かず、したがって助けも呼べず、脱水状態で一晩中苦しんだあげく、仕方なくフラフラの状態で数キロ歩いて町に出た。
 体は消耗しきっている。たどり着いたお寺の、山門のわきにある椅子に座って体を休め、何もせずにボーッとしていた。
 4月下旬。霧のように流れるしめやかな春の小雨をながめていると、いつの間にか90分も過ぎていた。あくせく働くばかりの普段の生活では考えられない過ごしかたである。
 お遍路は一生つづくと言われるが、四国行きを勧めてくれた友達と話すときに、共通した感慨として口にするのは「いまだに四国での経験はつづいている」ということだ。
 当時のことを思い出したのは、久しぶりに時間的余裕のある日々を過ごしたからだろう。
 多くの人にとって、仕事をしない日が長く続くのは、モラトリアム以来のことではないか。いわば足踏み状態なのだが、考えることはできる。筆者の四国路の経験でいえば、ちょうど前述のお寺の時間のようなものである。
 時間を無為に消化していると、普段は見えなかったものが見えてくる。たとえそれが、見たくもない現実であったとしてもだ。
 無為と書いたが、真の意味でそうではない。気づきがあったり、何かが生まれたりするのは、そういう時かもしれないのだ。よく言われていたように「自分を見つめ直す機会」である。普段やらなかったことをやると、ごく自然にそうなるのではないだろうか。
 たとえば、筆者は実験的に、ひげを伸ばしてみた。50日以上もひげを剃らなかったのは生まれて初めてのことで、かつて見たことのない風貌が鏡の中に映っており、「これは誰だ?」と思わず「自分を見つめ直してみ」た。食事をするときに口ひげが邪魔になる、という気づきもあった。以上は普段ならわからなかったことだ。
 いざ剃ろうとすると、カミソリの刃が血糊の巻いた刀のようになって、なかなか剃れない。ハサミも併用して剃り終えると、意外にも妙に青臭く心許ない顔になっていた。
 ちなみに、モジャモジャとひげに覆われた口元を写真に撮ってアジアジに送ったら、「汚い写真は削除しろ」という返信が届いた。大きなお世話である。




2020.6.11

第三百九十九回 それから『それから』 

 ステイホームが勧められていた期間、これまで遠ざけていた読書や映画鑑賞をされた方も多いのではないか。
 たとえば、筆者はマリリン・モンローの出演作以外にも、あの有名な『シェーン』を初めて見た。日本語吹き替えのない廉価版で見たのだが、少年が叫ぶラストの名シーンでは字幕がなかった。ずっと昔、育毛剤のCMでアニメになっていたシーンだ。
 これはミスなのか意図的なものか、もしわざとだったら、編者の心遣いに感謝する。
 字幕がなくて正解なのだ。原語でないといけない。ここで「戻ってきてー!」などと日本語が出てくるのは野暮の骨頂というものだろう。
 本では、夏目漱石の『こころ』と、それから『それから』を読んだ。いずれも学生時代に読んだものだが、仕事をせずブラブラしている日々に、漱石のいう「高等遊民」を思い出したがゆえの再読である。
 森田芳光監督の同名映画では、松田優作が主人公の長井代助を演じているが、合っているようなそうでないような、どちらにも取れるキャスティングである。筆者は見ていないので何とも言えない。
 原作は終盤から展開が加速する。
「ああ動く。世の中が動く」
 何もかも赤く染まった世界の中で、主人公がつぶやくこの言葉が、強く印象に残っていた。
『こころ』にも遊民が出てくるが、世の中が悠長だったのだろうか。激変の時代なのに。
 映画では、アラン・ドロンを3作品。三島由紀夫がエッセイで触れていた『サムライ』、『地下室のメロディ』、『さらば友よ』などを視聴。『地下室のメロディ』はモノクロで見たことがあるが、カラー版が出たので買ったのだ。この映画はカラーのほうがいいと思う。
 スティーブ・マックイーンでは、『パピヨン』、『ブリット』、『大脱走』など。こうしてみると、なぜか古い作品ばかり見ている。『大脱走』は全編に明るい雰囲気だったが、同じく大作で脱走ものの『パピヨン』は、これでもかというほどの苦難が連続し、見ていて気が重くなるほど重苦しく、悲愴感すら漂う壮絶な脱走劇だった。
 ヘップバーン主演の『マイ・フェア・レディ』も名画として有名だが、見るのは初めてだった。筆者はミュージカルが全般に苦手なのである。
(こんなときに、急に歌い出すなんて……)
 と思ってしまう。戦いの最中でもいきなり歌い始めるし、悪役でもノリノリで踊りだす。
 ストーリーの古典的骨格(実際、古典だ)は面白いが、それでも長すぎてダレた。ヒギンズ教授が嫌なやつで、現在の観客(とくに女性)には受け入れられないのではないだろうか。
 ただ、ヘップバーンのセリフの中に、秀逸なひと言があった。 
「レディと花売り娘の違いは、どう振る舞うかではなく、どう扱われるかです。花売り娘として扱う教授には、私は永久に花売り娘。レディとして扱う大佐の前では、レディになれます。」
 こういうセリフが出てくるのは、やはりハリウッドの底力という気がする。作品全体が一気に引きしまるのだから。




2020.6.4

第三百九十八回 2020年のマリリン 

突然だが、「モンロー主義」という言葉を聞いて、
「大勢いるハリウッドの女優の中で、俺はなんといっても、マリリンが一番だね!」
 という熱狂的な「マリリン・モンロー原理主義」を思い浮かべる人が何人いるだろうか。
 日本なら「やっぱり断然、吉永小百合だよ」という小百合ファン(さゆりすと)のような使い方であるが、もちろん、そんな内容が世界史の教科書に載るはずもない。
 何が言いたいかというと、筆者はこの歳になって、生まれて初めてマリリン・モンローの映画を見たのである。あの有名な大女優の出演作を、これまで一度も見たことがなかったのだ。
 もっとも、そういう人は周囲に珍しくない。なにしろ世代が違う。
 筆者らの世代だと、話題になった海外の女優といえば、ソフィー・マルソーだろうか。それも一人の友人が萌えていただけでブームというほどの現象(それこそ『ラ・ブーム』)ではなかった。
 今さらながらマリリン・モンローに興味を持ったのは、くねくねとおしりを振って歩く「モンローウォーク」が元からの癖ではなく、意識的に開発したものだったと聞いたからである。色っぽくみせるために、彼女はなんとハイヒールの片方だけヒールを削ったというのだ。
 それだけ見るとバカみたいな行為だが、大山総裁が山中で片方の眉だけを剃り落としたのと同質の、つまり「空手バカ」と同じ意味のバカだ。一種の狂気を帯びている。
 モンローは人気があがる一方、お色気だけが売りで知性がないという批判も出ていたらしいが、やっぱりスターになる人はタダ者ではないのだ。
 で、興味が出て『ナイアガラ』と『七年目の浮気』を見たのだが。
『ナイアガラ』はモンローが主演というより、もう一人の女優を中心に物語が進んでいた。
『七年目の浮気』では、いかにも彼女の持ち味が活かされている。マリリン・モンローという女優は、たしかにスタイルはいいが、顔だけで判断すると、美形が珍しくない映画界ではそれほど飛び抜けているとは言えないだろう。
 だが、存在感というのだろうか。画面の中で動き出した瞬間、印象が一変する。写真の中では普通だが、ひとたび表情が動き、話しだすと、それが愛嬌になるのだ。静止画ではなく、動画になって魅力が出る女優だろう。
 さて、マリリンといえば……。話はまるっきり変わるのだが……。
 筆者らの少年時代、題名にマリリンの名前が入っている歌謡曲がはやった。
 歌っていた女性アイドルは、ぶっちぎりの歌唱力があり、歌い方には突き抜けるような迫力もあって、つまり顔だけで人気のあるタレントではなかった。その実力ほどヒット曲に恵まれていなかったのが、(ヘソ出しルックと共に)マリリンの歌で一気にブレイクしたのである。
 筆者は彼女のファンというわけではなかったが、しかし、タメだった。
 これは大きいのだ。とくに田舎で生活していた少年にとって、自分とちがい、もう仕事をしていて、大人の世界で活躍している「おない年の女の子」がいるということは。
 そして、後年、彼女は白血病で早すぎる死を迎えた。マリリンといえば、正直いってモンローよりも、街角に流れていた彼女の歌声の印象が強い。




2020.5.21

第三百九十七回 堀江美都子(×大杉久美子) 

『デメタン』で語りすぎてしまったので、堀江美都子ベスト盤のほかの収録曲の話を。
 さすがに大御所中の大御所で『アクビ姫』や『てんとう虫の歌』を歌っていたのもこの人だったことを知った。
『サザエさん』では、「明るい私は、明るい私は、サザエさん」とあるが、「さん」は相手に対する敬称であり、自分自身につけるのは不自然というものだ。「私は氏村さん」とか、英語でも「My name is Mr.○○」とは言わない。
『魔法のマコちゃん』『魔女っ子チックル』『花の子ルンルン』『魔法少女ララベル』『ひみつのアッコちゃん』など、収録曲の中には魔法少女ものも多い。
『魔法のマコちゃん』の歌詞には「なにをもとめてさまようのマコ、青いひとみに涙がにじみ、白いすあしに血がにじむ」とある。穏やかではない。どんなストーリーだろう。そのわりに「だって、年頃なんだもん。わかってえ」と朗らかなセリフが挿入されている。
 筆者はこの作品を見たことがないので、シリアスなのかギャグまじりなのか、作風の見当がつけがたい。『アタックNO1』の「だって涙が出ちゃう。女の子だもん」といい、こういうノリが当時は受けていたのだろうか。
『ジムボタン』は毎週見ていたくせにストーリーを覚えていないが、このアップテンポな主題歌は印象強く残っている。「幸せをぬすむ敵は、魔神ドリンガー」の後で、なんと、その敵が「ドリンガァー」とハモりを入れる。悪者なのに、ノリがいいのだ。
 この作品、原作は『モモ』や『はてしない物語』のミヒャエル・エンデだという。たぶん原作とは大きく変えられていることだろう。
『キャンディキャンディ』は、あまりにも有名な曲。通常のアニメならOPには主要登場人物が顔見せのように出てくるものだが、この作品は主人公のキャンディだけをとらえつづけている。こんなOPも珍しいと思う。
『ボルテスV』や『ダルタニアス』などの男児向け作品もあるが、異色なのは水島新司原作の『野球狂の詩』だろう。筆者は見ておらず、内容はまったく知らないが、歌詞がないのである。スキャットだけのOPで、斬新な試みといえよう。
『ひみつのアッコちゃん』は何度かアニメ化されているようだが、ここに入っているのは第二期の主題歌。筆者らが見ていたのは一番最初のやつだが、まじめで品行方正だった初代に比べて、第二期のアッコちゃんは、いかにも今風(といっても当時だが)で軽い感じになっていたらしい。
 堀江美都子の活動期間は長く、最後の方の収録曲(『ハロー!サンディベル』や『恋してナイト』など)になると、筆者はもう知らない。主人公の顔さえわからない。妹の横でアニメなどを見ている年齢ではなくなっているのだ。
 が、歌詞カードを見てみると、作詞が井上ひさしだったり編曲が久石譲だったりと、意外な発見があった。そんなわけで、同じシリーズの大杉久美子ベストも買ったが、大杉さんは『アタックNO1』から始まり、世界名作劇場の主題歌が多かった。この人の声も非常にきれいなのだ。




2020.5.14

第三百九十六回 熱唱、堀江美都子! 

『ベスト・オブ・ベスト 堀江美都子』も名盤である。
 妹がいたので、男でも女の子向けの番組を知っているのだ。堀江美都子といえば、『キャンディキャンディ』の主題歌が有名だが、この人の歌声には特殊な波長が出ているらしく、自然の中で歌っていると、虫や小動物が集まってくるという話を聞いたことがある。たとえばトンボなどが数匹、堀江さんの目の前でホバリングし、メロディーに合わせてリズムを取るように横に揺れるというのだ。澄みきった声質ならではのエピソードである。
 一曲目の『紅三四郎』の歌詞に「ゆくぞケン坊、ゆくぞボケ」とあって驚いた。歌詞カードを確認したが、聞き間違いではない。
 推測するに、主人公の三四郎には「ケン坊」という仲間がいるのだろう。そのケン坊が出発の時になってもモタモタしているので、「なにやってんだ、ケン坊。もう行くぞ、さっさとしろよ、このボケ」ということだろうか。
 気になって検索してみると、なんと「ボケ」というのも仲間の名前だった。どんなキャラなんだ。まるで『アパッチ野球軍』のメンバー「ダニ」にも匹敵するほどのネーミングである。
『けろっこデメタン』の冒頭、「けろっこデ~メ~タン」というところが「魔女っ子メ~グ~ちゃん」とまちがえて歌われているのを、筆者はたしかにどこかで聞いたことがあるのだが、思い出せない。なるほど、音数律は見事に一致している。
 歌詞には「蹴っ飛ばされても、すぐ起きろ。踏んづけられても、また起きろ」とあるが、それは無理というものだろう。まず「何」に踏んづけられたかが問題である。それが人間だったら、また起きるどころではない。即死であり、再起不能である。
「それでもなかずに笛を吹け。ぴーひゃらケロケロぴーひゃらら」とあるが、「ケロケロ」は鳴き声ではないか。「おまえがなけば」の「なく」という動詞も「泣く」か「鳴く」かわからない。主人公がカエルだから。でも擬人化されていることだし、「虹のお池が雨になる」とつづく点からみても前者のようではある。
 さらに、笛を吹いたら「ほらほら、ラナタンがとんでくる」という。そういえばガールフレンドがいたような……。名前に「たん」づけしているのは、萌えのはしりかと思ったが、主人公も「デメタン」であり、これは丸ごと「ラナタン」という固有名詞だった。
 笛を吹いたら「とんでくる」ラナタンとは、そも何者なのか。検索してみると出てきた。
 つけ睫毛に頬紅にアイシャドウ、スレンダーボディにミニスカ。こんな色っぽいアマガエルがいるのか。しかも「小学四年生」というから驚きだ。しかし、デメタンもつけ睫毛に頬紅にアイシャドウをつけたような外見をしているから、ラナタンが化粧しているわけではなさそうだ。ふにゃーんとした締まりのない表情といい、『みなしごハッチ』に通じる作画である。
 このアニメは、しかし見ていて子供心にカタルシスのない番組だった記憶がある。
 仲間のカエルにはいじめられるし、ほかの種に出会うと、たいてい襲われる。だいたいアマガエルというのが、池周辺の生態域で食物連鎖の最下層に位置しているのだから無理もないが、どうにもスカッとしないのである。
 このCDも良かったので『ベスト・オブ・ベスト 大杉久美子』も買った。




2020.5.7

第三百九十五回 熱唱、水木一郎! 

『ベスト・オブ・ベスト 水木一郎』というCDは名盤である。文字通り、圧倒的な歌唱力を誇る水木一郎のベスト盤だが、それにしてもこんなに多くの主題歌を歌っていたのだ。
 たとえば、『超人バロム1』や『バビル二世』など、久しぶりにOPを聴けたのは良かったが、残念なことにEDがない。ED曲も非常にいいのである。
『宇宙の騎士テッカマン』も主題歌は覚えているが、ストーリーは難解だったのか、なぜか思い出せない。絵柄が劇画調で、幼少期は登場人物たちに馴染めなかった記憶がある。
 ところで、スペースオペラでは「宇宙○○」(宇宙戦艦とか宇宙空母)というのが珍しくない。地球が舞台の『宇宙刑事』シリーズも、銀河警察に所属しているという設定である。
 だが、歌詞にある「宇宙忍者」とは何だろう。そもそも忍者とは日本固有のものであり、しかも現代には存在しないのに、世界の段階(アメリカ忍者とか)を跳びこえて宇宙に進出しているとは不可解である。まあ「宇宙の騎士」があるのだから、忍者もアリということか。
『鋼鉄ジーグ』も筆者は見ていなかった。小学生の頃、筆者と友達で、ともに妹同士がピアノの発表会に出るので聴きに行ったら、プログラムに「ジーグ」という曲があった。もちろん何の関係もない。が、友達は反応していた。彼は見ていたのだろう。
 歌詞には「バラバラババンバン ババンバ バンバンバンバン ババンバン」と18音もバンバンだけが連続する箇所があり(注・ビバノンノンには続かない)、これは作曲のほうが先で、曲に合わせて作詞がおこなわれたのではないかと考えられる。
『怪傑ズバット』は、『仮面ライダーV3』で有名な宮内洋の主演作。必殺シリーズやゴレンジャーで「ニヒルな二番手」の役を演じてきたが、この役はまたとびきりニヒルだという。興味のある作品なのだが、残念なことに筆者は未視聴。
『ムーの白鯨』も収録されている。メルヴィルの白鯨(モビー・ディック)は、マッコウクジラのアルビノだったが、こちらはシロナガスクジラである。白い巨鯨が空を飛ぶというシーンにひかれたが、あまり見ていなかったのか、ストーリーはよく覚えていない。
『プロゴルファー猿』は、かの藤子不二雄先生の異色作。主題歌は「わいは猿や。プロゴルファー猿や」というセリフから始まる。
『タイガーマスク』は、「虎だ。虎だ。おまえは虎になるのだ」で始まるし、もっと類似しているのは、同じCDに収録されている『グランプリの鷹』の歌詞だ。
「おれは鷹だ。グランプリの鷹だ」
「わいは猿や。プロゴルファー猿や」
 こう比べてみると、自分は猿だという関西弁での名乗りあげが、はたしてそれほど誇らしいことなのかと思えてくる。プロレスラーが虎というのは強いイメージで合っているし、レーサーが鷹というのも、いかにも颯爽としていて、ライバルの車を急襲するスピード感を感じさる。だが、猿はプロゴルファーの特性を体現しているのだろうか。
 ほかにも『マシンハヤブサ』や『超電磁ロボコン・バトラーV』、『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』など、なつかしい番組の主題歌が多数収録されている。これが良かったので『ベスト・オブ・ベスト ささきいさお』も買った。




2020.4.30

第三百九十四回 受験生の「一人でできるもん」 

3月に学校が休みになって、子どもたちも最初は解放感を覚えたかもしれない。
 でも、こんなに長く続くと、よほど鈍感な子でないかぎり、さまざまな制約に不安や不満が生じてくるはずだ。とくに小6でも中3でも高3でも、今年「受験生」の立場にある子たちは、学習環境がままならぬことでストレスを抱えているだろう。
 みんなで乗り越えよう、というムードも、先の見えない状況がこう長く続くと、社会全体が疲弊してくる。でも、子どもたちよ、あえて言いますが、いっしょに我慢してください。
 大変かもしれないけど、大人はもっと大変です。君たちを守るために。
 空手を通して学んでいるのは、突きや蹴りのテクニックだけではないはず。
 日本全国の人々が、いや、世界中が修羅場に直面している現在、子どもにも社会の中で自分の「持ち場」がある。混乱に動じることなく、家でできることを考えて、実行してほしい。
 受験生なら、この時期の過ごしかたで大いに差がつくだろう。怠けていた子や無自覚な子は取り残される。できれば「自分で」やるべきことを見つけられると一番だが、受験生が一人でできることといえば、まずは暗記モノだ。
 社会や理科の暗記項目はもちろん、英語なら単語、熟語、構文のパターン。これらを身につける機会にしてはどうだろうか。
 社会にしても、受験では、絵や写真、グラフなどの資料から抽象性を読み取る能力が求められるが、まずは知識がないと歯が立たない。かけ算ができなきゃ鶴亀算ができないように。
 国語なら、今まで習った漢字の総復習。書けない字をなくそう。三字・四字熟語、ことわざ、慣用句、故事成語、同音異義語に同訓異字など、覚えるべき知識事項は山ほどある。
 算数や数学は、幅を広げるよりも逆にテーマをしぼり、手ごたえのある問題に時間をかけてじっくりと取り組むほうがいいだろう。
 空手でいえば、道場稽古(授業)で学ぶのは、解き方の「技術」である。技術を学ぶのは面白い。でも、どんなにすぐれたテクニックでも、土台となる「体力」がなければ、それを活かせない。その体力にあたるものが基礎知識なのだ。
 進学塾では、自力で発見するには長い期間を必要とするテクニックを、惜しげもなく伝授している。ところが受け取る側は、その有り難みに気づいていない(ことが多い)。純露のような、結晶のようなテクニックを聞き流している。
 なぜか。受け身でいるからだ。自分から求めていない。当たり前に与えられていると、その価値がわからないのだ。おなかいっぱいの時には、ご馳走でも入らないように。
 逆に自分から欲していれば、たちまち吸収する。受験間近になれば誰でもそうなるので、吸収力は上がるが、もう他者との差はつかない。だから、今がチャンスなのだ。
 9月入学が実現すれば、受験は7月になるのか、よくわからないけど、カリキュラムはすべて見直される。でも、どっちにしても、今できることは同じ。
 現在、道場(授業)でテクニックを学ぶことは残念ながらできないが、こんなときは家でじっくりと体力(基礎知識)の養成と充実を図っておけば、のちに吸収がよくなるはずだ。
 そう考えれば、やることはいくらでもあるのではないか。




2020.4.23

第三百九十三回 修羅場の人生考 

 もう一回、『じゃりン子チエ』のネタを。
 なぜ思い出したかというと、今、このTVアニメ版のDVDマガジンが出ているのだ。月末に発売されていて、6巻で全話収録だという。
 基本的にお笑いが中心の物語だが、ほのかな哀愁もあり、しんみりとするいい話もある。原作の漫画でも、名エピソードはやはり前期に集中していると思う。
 その中で、チエとおばあはんの興味深いシーンがある。
 ことの起こりは、やはり父親のテツ。働かず、バクチ好きで家族を困らせているが、とうとう警察が賭博場の一斉検挙に乗りだし、その場に居合わせたテツも、現行犯で警察に逮捕されるかもしれないという危機がおとずれるのである。
 冬の寒い夜、テツをとめに行くチエとおばあはんだが、わずかな差で間に合わず、すでにテツは賭博場に入ってしまい、建物の周りには警察官の姿も見られた。
 ここで、おばあはんは近くの屋台でラーメンを食べようとする。
「おバアはん、ウチらこんなとこでラーメン食べててええの」
 といぶかるチエに、おばあはんは、晩ごはんをまだ食べていなかったから、と言う。
「腹ごしらえでもしてゆっくり考えまひょ。チエもしっかり食べたほうがよろしいで」
「ウチ、ソバがのどにつまりそうや」
「しっかり食べなはれ。勉強ですわ」
 これが勉強、という意味がチエにはわからない。
「そうです、勉強ですわ。わたい、テツがチエぐらいの時から、なんべんもこんな目におうてますのや」
 と、おばあはんは修羅場の経験を語るのだ。
「ウチも、なんべんもひどい目におうてるけど、テツがブタ箱ほおり込まれるの初めてや」
 とチエが言うと、
「ほれ、みなはれ。もおそんなこと考えてる」
「エッ」
「人間に一番悪いのは、腹がへるのと寒いゆうことですわ。長いこと生きてますとな、ほんまに死にたいちゅうことが何回かありますのや。そおゆう時、メシも食べんともの考えるとロクなこと想像しまへんのや」
 これを聞いて、チエもこわくなり、父親が刑務所に入れられるかもしれないという不安の中で、気持ちを切り替えてラーメンを食べる。
 一部のセリフを省略したが、筆者はこのシーンが好きである。
 はるき悦巳は、おそらく、どん底の経験と修羅場を知っているのだろう。絶望的な状況と孤独を知っている。そんな中で縮こまって膝を抱えていても、悪いほうへばかり考えが向かってしまう。だから、まずは腹ごしらえ。「メシ食って考えよう」と言う。
「ひもじい、寒い、もお死にたい。不幸はこの順番で来ますのや」
 これは名ゼリフであり、名シーンであると思うのだ。




2020.4.16

第三百九十二回 テツが勝てない相手 

 学生時代のことだから、もうずいぶん前だが、電車の中でとなりに座っていた若い女性二人が、『じゃりン子チエ』の話をしていた。
「それでね、テツっていうのがウケるのよ」
 と、「テ」にアクセントをおいていたので、関東出身の人なのだろう。
 ちがうのだ。どちらも強めず、もっと平坦に発音するのだ。
 映画などで正確でない関西弁を聞くと、関西出身者にはすぐわかるが、その点『じゃりン子チエ』は申し分ない。
 テツの役を担当したのが漫才師の西川のりおで、意外にもこれがぴったりだった。
 そして、主役のチエを演じたのが、中山千夏。誰がキャスティングしたのだろう、その神がかった慧眼に恐れ入る。二人とも大阪育ちなので、もちろん大阪弁も完璧。ほかの人は考えられないほどのはまり役だった。
 この物語、ほとんどの登場人物が大阪弁を話す中で、チエの担任教師だけが標準語を使っている。東京の大学に通っていたという設定かもしれない。
 あくの強い人物が多い物語の中で、この先生(とチエのお母さん)は、やさしくて真面目で品がいい。
 お坊ちゃんというキャラクターでは、チエの同級生に、マサルといういじめっ子がいる。
 お金持ちの優等生だが、なにかとチエを意識し、貧乏をからかい、悪口を言ってくる。
 だが、弱い。勝負になるとあっさり負け、チエに「スネかじりが」と言い捨てられる。いつもからかっているくせに、ケンカになったら負けるいじめっ子というのも面白い。
 ヤクザをどつくのが趣味で、ケンカでは無敵のテツも、娘のチエには勝てない。ただし、これは愛情から。
 面白いことに、テツが本気を出しても勝てないのが、チエが飼っている猫の小鉄なのだ。
 とぼけた表情だが、額に三日月型の傷痕があり、「土佐犬を噛み殺す」ほど強かったトラ猫のアントニオをあっさりと倒して、チエの用心棒にもなっている。
 ほかにもテツが勝てない相手に、小学校時代の担任だった花井拳骨と、実母(チエにとっての「おばあはん」)がいる。
 花井拳骨は漢詩の研究者で、文化人の名士でもあるが、豪快な性格で、かつて京都大学の相撲部の主将だった。
 おばあはんには空手の心得があり、今でも気合いとともに、正拳突きで木の丸椅子に穴をあける。数人がかりのヤクザが相手でも、素手で全員倒すほど強い。
 両者とも高齢を感じさせないほどパワフルで、テツにも気合い負けしていないが、テツは子ども時代に叱られていた関係を引きずっていて、心理的に勝てないともいえる。
 あと、お好み焼き屋のおっさん(百合根氏)も、日本酒を一升こすと目が据わり、テツもシタテに出るが、普段はおとなしくてテツに都合よくあしらわれている。
 となると、どつくとかケンカとか、そういう沙汰が絶えないこの物語の中で、もっとも強いキャラクターは、猫の小鉄ということになるのだろうか。




2020.4.9

第三百九十一回 日本一不幸な少女は誰か 

 筆者の学生時代、いつ帰省しても、(関西地方で)常に『じゃりン子チエ』のアニメがテレビで再放送されていた。関東の方はご存じだろうか、この作品。
 原作は、はるき悦巳。最初に刊行された大判のコミックを、筆者は13巻まで持っていて、このあたりまでは、もう問答無用の大傑作(その後、友人が45巻ぐらいまでくれた)。セリフもキャラクターも、そのかけ合いだけでも楽しく、何度読んでも掛け値なしに面白かった。
 アニメのほうも、脚本がほとんど原作と変わらないのは、それだけ原作のセリフがすぐれているからだろう。まるでフランス映画のように楽しめる。また、アニメではアレンジされているところも非常に巧みであった。
 どういう話かというと、大阪の西荻という架空の街(西成区と推定される)が舞台で、主人公は、竹本チエという小学5年生の少女。父親のテツは無職で、ヤクザ相手のケンカに明け暮れ、博打ばかりしているので、自営のホルモン焼き屋の看板を「てっちゃん」から「チエちゃん」に変えて、親の代わりに働いている。
 たまに疲れて「ウチは日本一不幸な少女や」と言うし、柄の悪い客の相手をして、「ほんまにろくな男がおらへんなあ。日本国中そうなんやろか」とつぶやくこともある。
 自宅は店の奥の一間(6畳ぐらい)だから、かなり貧しい。
 母のヨシ江はテツについていけなくなって家を出ているが、チエとはたまにこっそりと逢い、チエは「お母はん」が家に戻ってこられるように活動する(そして実現する)。
 それからもテツは働かず、ヨシ江さんは裁縫の仕事をしているので、小学生のチエがホルモン焼き屋で酔っ払いの相手をしながら、父親のテツを養っている。
「早よ、ウチなしでも生きていけるようになって欲しいわ」
「コラ、親みたいなこと言うな」
 などという、親子逆転のやり取りもあって笑える。
 気弱な祖父には「チエも近ごろ口が悪うなったな。もうちょっと子どもらしゅうせんと……」と言われるが、チエは「子どもらしゅうしとったら生きていけん。家庭環境が悪いねん」と返すしっかり者である。
 実際、客観的にみると、チエの家庭は、かなり悲惨といえるかもしれない。
 テツの小学生時代の担任だった豪傑の花井拳骨は、息子の花井渉(チエの担任教師)とともに家庭訪問し、テツとチエに日本酒を飲ませる。小学生に酒を飲ませるのだから、今だったら問題になるだろうか。
 父のやることに驚いた渉は、「お父さん、チエちゃんはまだ子どもですよ」と言うと、「バカタレ。おまえみたいな教科書どおりの教育で、この異常な一家が救えるのか!」と一喝。
 たしかに悲惨で異常なのだが、チエがたくましく、テツもまったく悪びれていないので、明るくてパワフルな物語はひたすら面白く、ほのかな哀感はあっても、悲愴感はない。
 熱心なファンの中には、作品の舞台となる場所を探して訪ね歩く人もいるという。
 学生時代、筆者の女友達(東京生まれ)もこの作品の大ファンで、その後、「あこがれの大阪」に引っ越していった。




2020.4.2

第三百九十回 火星人が攻めてきた! 

 妖怪つながりで思い出したが、筆者が小学生だった頃、「口裂け女」の話題が世の中を騒がせていた時期があった。
 それが全国的な現象だったことは後になって知った。地域によってディティールは異なるようだが、筆者らが住んでいた兵庫県の西宮市では、なんでもマスクをした女性に、
「私、きれい?」
 ときかれ、それを肯定すると、女性は、
「これでもかあッ!」
 と言ってマスクを外す。そしたら耳まで裂けた口が現れ、襲われるのだということだった。
 褒めているのになぜ襲われなきゃいけないんだ、と疑問に思ったが、何よりも怖いのは、そんな荒唐無稽な話でも、周りが信じ込んでいると、それが「事実」になってくることだ。
 実際、地域によっては集団下校をしたり、パトカーが出動する騒ぎにまで発展したという。 話は変わって、イギリスの作家、H・G・ウエルズの代表作に『宇宙戦争』というSF小説の古典がある。
 簡単にいうと、火星人が攻めてくる話だ。地球人類と火星人が戦うのである。
 原題は『THE WAR OF WORLDS』といい、1898年の刊行。つまり第一次世界大戦よりも前の作品なので、こういう題名がつけられたのだろう。ウエルズも、のちの時代の冷戦状態や自由・社会などの主義に世界が分かれるとは予想しなかったものと思われる。
 筆者はこの作品が好きで、少年時代に子ども向けに書かれたものから、大人になってもSF文庫などで何回か読んだが、なにがいいかって火星人の造形である。タコ型と呼ばれる軟体動物のような異星人のはしりがこの作品なのだ。
 そして、彼らが操縦するトライポッドという三本足の戦闘機械。これらの魅力的なデザインだけで、もう名作まちがいなしである。
 しかも、彼らは当時の地球の科学力をもってしてもかなわない強敵であり、あわや敗北かというギリギリの状況まで人類は追い詰められるのだが……意表を突くラストも心に残った。
 ただ、初めの方で一カ所、主人公(大人)が、「自転車に乗る練習」をしているところがあり、「いい大人がなにを……」と大いに違和感を覚えたのだが、なにしろ時代が百年以上も前なので仕方がない。
 映画は2作品とも見たが、どちらもイマイチだった。大昔の方は火星人が一瞬しか出てこないうえ、外見がまったくちがう。スピルバーグの方は、あんなに大きくもっさりしていては台無しだと思った。
 この作品には有名なエピソードがある。当時、ラジオで、この『宇宙戦争』が紹介されたとき、聴いていた人々がそれを本気にしてパニックが起きたというのである。「火星人が攻めてきた!」と思って大騒ぎになったというのだ。
 んなわけないだろ、とあながち笑い飛ばせないのは、今年の日本でも、コロナウイルスの影響によるデマにおどらされて、トイレットパーパーや食料の買い占めが起こったことだ。口裂け女の存在や火星人の侵攻を信じてパニックを起こすのと大差ないのではないか。




2020.3.26

第三百八十九回 暗いさだめを吹き飛ばせ 

 またこの話題か、と思われそうな『妖怪人間ベム』。
 ようやくすべての回を見終わったのだが、じつに数十年ぶりの鑑賞で、大人になってから見たのは初めてだった。思ったのは、各話ともストーリーの展開が早く、サクサクと話が進むので飽きず、そして「濃い」ことだ。
 違和感があったのは、オープニングナレーションにつづいて出てくるサブタイトルの書体が、白ぬきゴシックで、画面の色調から浮いている。こういうとき筆者は天野ミチヒロ氏の著作で再確認するのだが、やはり差別表現と取られるものが改題されたらしい。
 そう、このブログでも(調べてみると)去年の第267回と第268回で『妖怪人間ベム』に触れているが、そこでの記述に大きな間違いがあったことをお詫びし、訂正しておきます。
 最終回(第26回)のサブタイトルが『亡者の洞窟』ではなく、正しくは『亡者の洞穴』でした。屋内に掘られた穴に亡者をポイ捨てしているのだから、たしかに「洞窟」はおかしい。
 しかし、この最終回、今見ても怖かった。子どもの頃に強烈なショックを受けたせいか、去年(268回で)書いた描写はほぼ記憶通りだったが、大人の視点で気づいたのは、30分枠内での構成・展開が非常によくまとまっているということ。あと、テレポートの能力があるのだから、最後は脱出できるのでは? とも思った。
 それから、ベムが変身するときの「ウー、ウガンダー」は謎のセリフで、相変わらず意味不明。アフリカ中央部の「ウガンダ共和国」とは関係なさそうである。
 第25話では、閉じこめられている子の部屋に、ベロがドアから顔だけ突き出して(壁抜けができるのだ)現れたり、相手の子の警戒心を解くために、常套句の「オイラ、怪しい者じゃないよ」を口にし、逆立ちをして頭だけ360度グルリと回転して見せた。
「めちゃくちゃ怪しいじゃねえか」と大人はツッコミたくなる。これだけで人間ではないことをみずから証明しているようなものだが、相手の子どもは面白がって打ち解けていた。
 それにしても、こんな怖いものを当時の子どもたちは見ていたのだ。
『階段を這う手首』や『鉄塔の鬼火』など、シチュエーションだけでも不気味だが、第15話『狙われた目玉』のように、自分の娘のために、ほかの人間を平気で犠牲にしていくというのも怖い。なんというか、愛情という動機があるだけに、そのギャップで残虐行為が引き立つというか、鬼子母神に通じる怖さである。
「早く人間になりたい」と願ってきた三人が、人間になる方法にようやく気づいたが、それを実行せず、報いられずに終わった、というラストもショッキングだった。
 3巻の終わりに、ボーナストラックとしてパートⅡが二話だけ収録されており、こういうのがあるとは知らずに今回初めて見たが、ベロの顔が愛らしくなっていた。
 旧作では目が黄色っぽく、吊り目がちで、エンディングでも「顔はこわいが、いいやつさ」と自分で言ってるぐらいだが、目が少女漫画のように大きく変わっている。新作の『BEM』では、ベムがスキンヘッドではなくなり、ベラにいたっては女子高生になっているという。
 美形にすればある程度の視聴率は見込めるだろうが、月並みな作品に成り下がることは否めない。そして視聴者に(サービスはしても)媚びなかった旧作がますます際立つのである。




2020.3.20

第三百八十八回 大人なんかわかっちゃない 

 新型コロナウイルスの予防措置として、全国の公立小中学校が休校になっていたのはご存じの通り。そのことで子どもたちがストレスを感じているという報道がされていたが、いったい何人を対象にし、どんなデータに基づいた調査結果なのだろう。
 マスコミというのは、政権批判のために意図的な操作を平気でする。その結果、今回ならとくに感慨を持たなかった子も「そういえばストレスあるかもな」という気になってくる。
 休校になってストレスを感じている子がいたことは事実にしても(よほど学校が好きな子は別だが)、これでストレスを感じるなら夏休みも苦行に違いない。
 これは筆者の主観であり、自分を基準にした考えだが、小学生の頃は学校に閉塞感を感じていたので、休みは無条件で嬉しかった。でも、たしかに外で遊ぶのは好きだった。
 休みでも外に出られないという、いわば自宅謹慎のような状態がつらい、という気持ちは類推できる。ただ、非常事態なのだから、ストレスがゼロというわけにもいかないだろう、とも思う。
 一方で、休校になって喜んでいた子もいたはずだ。たとえば、いじめられている子や、インドア派で室内での楽しみを知っている子、学校に行くのがめんどうで授業を受けなくて済むと考えた子たちは大いに喜び、ニュースを見て、大人なんかわかっちゃないな、と思っていたのではないか(不謹慎という理由で報じられないだろうが)。
 さて、「大人なんかわかっちゃない」ということで、強引に『妖怪人間ベム』の話題につなげる。
 エンディングの歌詞に出てくるのである。ベロの視点に立った歌で、「オイラ、あやしい者じゃないよ」と弁解しながら、その外見と雰囲気から迫害される不条理に対しての、ベロの心理を歌ったものだ。
 子どもというのは、自分の気持ちを理解してくれない親に対して、ときどき拗ねるものである。このエンディングの歌詞は、そういうメインの視聴者層である子どもの心情に照準を合わせた設定だろう、と大人の筆者は思ったりもする。
 当時のアニメとしては非常に斬新な切り口の作品だが、このエンディングの、大人なんか「わかっちゃない」とか、ぼくらは「愉快な仲間」だよ、とかいうあたりには、感覚的な古さを感じる。
 ちなみに雑誌に掲載されていたことは、このエンディングで初めて知った。「ぼくらは愉快な仲間だよ」のタイミングで掲載雑誌(その名も『ぼくら』)が表示される。念のために言うと、ベロの一人称は「オイラ」である。
 前にも書いたが、『妖怪人間ベム』はリメイクされており、それが旧作ほど怖くないらしい。
 わざわざホラーを見るからには、当然怖がりたいという気持ちがあるのだから、マイルドにするなど、まったく余計な配慮なのだ。スリルと刺激を味わいたくてジェットコースターに乗ったのに、モノレールのような速度だったらガッカリするだろう。
 筆者はリメイク作を未視聴なので何とも言えないが、見た子は「全然こわくなかったよ」と話していた。彼らも「大人なんかわかっちゃない」と思ったかもしれない。




2020.3.12

第三百八十七回 3月のパン屋さん 

うららかな日差しがさす3月は、のどかで優しい早春の空気が心地よい。昼間は暖かなのに、夜になると肌寒くなる日もあるが、その闇もまた艶がある。
 筆者にとって3月は、お遍路で四国へ旅立った月であり、盆でも正月でもないのに季節はずれの帰省をしていた思い出の月でもある。
 昔、サラリーマンを辞めた直後の3月、しばらく実家で過ごしていたことがあった。
 新しい職を探さないといけないのに、とくに期限もないので、のんびりとしていた。思えば若くて向こう見ずだった。
 三週間ほど滞在していただろうか。その間、地元の合気道の道場にも短期で通った。ほんと、先の当てなどないのに、なぜそんな優雅な過ごし方ができたのだろう。
 この期間に女友達から届いた手紙には、ニュートンの「創造的休暇」という言葉が引用されていて、「あなたにとっても、今の期間は、次につなげるための休暇だね」という意味のことが書かれてあった。
 もちろんそれはやさしい慰めであって、筆者はなんら創造的なことはせず、無職で、終日ゴロゴロして、読書に明け暮れたりビデオに録っていた映画を観たり、夕方は合気道の道場に通ったりしているだけの、今から思えば夢のように脳天気な期間だった。
 ある日、おつかいでパンを買いにいった。
 母は菓子パンが好きなので、どの街に引っ越しても、お気に入りのパン屋さんを見つけてくる。筆者はいつも菓子パンよりサンドイッチを選ぶのだが、このときパン屋さんへの行き帰りに、沈丁花の香りが漂う道を一人で歩いたことは、季節はずれの特別休暇の思い出として記憶に残っている。
 家々の窓に灯がともる頃で、「自分はなにをやってるのだろう」とか「この先どうなるのだろう」などと思ったものだ。
 さて、今現在、世間は新型ウイルスのニュースで持ちきりである。その影響で、マスクやトイレットパーパーなどが店頭から消え、棚がガラガラになっているのもご存じの通り。去年の台風のときから、こういう買い占めの現象が目立つようになった。
 大晦日に放送された「ゆく年くる年」では、「きたる2020年が明るく穏やかな年でありますように」という意味のことを言っていたが、まさか年頭からこんな非常事態が起こるなんて誰も予想できなかったちがいない。
 全国の小中学校が休校になったり、一時的に営業を停止する企業や施設が出ていることも周知の通り。それによって子どもたちがストレスを感じているとニュースになっているが、この際ゆっくり休めばいいと思うのは不謹慎だろうか。
 せっかくだから普段の自分を見つめ直し、与えられた課題をこなすのではなく、この機会にできることを「自分で」考える。ゲームに没頭するのでも、習い事のスケジュールに追われるのでもなく、自分だけの時間の消費を楽しむ機会にすればいいのではないか。
 物情騒然たる世相の中、あるいはボーッとして考えているだけでもいい。今は無為に思えるその経験が、将来的に有意義になることもあるのだから。




2020.3.5

第三百八十六回 南無阿弥陀仏…… 

 前々回に書いた『必殺仕置人』の補足である。ずいぶん昔のドラマだが、一種テレビドラマ史上の革命的ともいえる作品だと思う。
 さて、その仕置人。中村主水のほか、仕置(殺し)担当の仲間は、念仏の鉄(山崎努)と、棺桶の錠(沖雅也)。いずれも後に名キャラクターとなるが、沖雅也は市松のほうがはまり役ではないかと思うのは、筆者だけではないはずだ。
 第一話で、女嫌いの錠をさして(正確な言葉は忘れたが)「女というものは猫の雌でも近づけない」というような意味のセリフがあったが、もしやこれは沖雅也の性癖を暗示する脚本家の遊びだろうか。
 錠の職業は棺桶職人で、いつもひたすら棺桶を作っている。琉球出身という設定で、空手のような体術を使い、派手に跳躍するアクションも披露する。スペシャル番組の『仕事人大集合』でも、この頃とやや異なるキャラクターで登場していた。
 そして、念仏の鉄。同じ配役は引き受けないと言われる名優・山崎努が例外的に続編でも演じた人気の仕置人である。強くて豪放磊落で、山崎努も演じるのが楽しかったのではないだろうか。
「棺桶と念仏」と呼ばれ、もとは錠とのコンビであったらしいが、『新仕置人』では中村主水と名コンビになっている。そういえば『新仕置人』では、なぜ錠が外れて巳代松に変わったのだろう。結果的にそれで良かったのだが。
 元は僧侶で坊主頭だが、鉄の職業は骨接ぎの医師。「あんたの指は魔物だね」と言われる精妙にして頑強な指で相手の骨を折る「腰骨外し」が必殺技。
 なんせ時代劇なのに、仕置シーンにレントゲン映像が出てくるのである。筆者は先に『渡し人』を見ていたが、当時の視聴者は驚嘆しただろう。
 その指技の見せ場として「クシャおじさん」が起用されている。クシャおじさんというのは、筆者も仕置人の第一話で初めて知ったのだが、顎の骨を自在に外すことができ、またそれを持ち芸にしている芸人さんである。ほんの一場面の登場だがインパクトは強烈だった。鉄に顎の骨を外されて顔を縦に折りたたまれ、(標的の悪人ではないので)また元に戻してもらうという、クシャおじさんにしかできない特技を活かした役どころであった。
 というように、筆者はほとんど第一話しか知らない。その第一話では、頼み人に仕置の現場を見せており、「顔を知られてはいけない」のが基本の後期からすると違和感があった。
 あと、天野さんの著作にあったように「人間のクズやお払い」というサブタイトルが問題になったり「仕置人殺人事件」が起こったり、なにかと曰く付きの作品ではあるが、「世のため人のためにならない悪を裁く」というコンセプトの『仕掛人』と大きく異なり「相手が悪党なら、俺たちはその上をいく悪党」という基本姿勢を打ち出した点でも、記念すべき作品だろう。
 自分たちは、けっして世直しのような高尚な考えを持った正義の味方じゃない。しょせんは金のために人を殺しているろくでなしなのだ、という自意識が根底にあり、考え方としては『仕掛人』のほうが危険であると思う。自分たちの独断で決めているのだから。
 ちなみに『仕掛人』について、筆者の知識は乏しく、このブログで取り上げていない。




2020.2.21

第三百八十五回 おめでとうございます! 

 国分寺支部の支部長で我々の師範である江口師範が、このたび六段の段位を取得され、ご存じの通り、さる23日に祝賀会が開かれた。
 江口師範のほか、佐藤七海さんやスガイズムなど、昨年の世界大会で活躍された選手の方々の祝賀会でもあり、道場HPの写真をご覧になれば盛会であったことがわかるだろう。
 それにしても正統な国際空手道連盟極真会館の六段である。筆者ごときがその価値を推し量るのはおこがましいが、ただ凄いことだけは感じる。
 知らない人のために言うと、昇段の審査には、その項目の中に10人単位の組手があり、初段なら10人、二段なら20人というように、段位の数に応じた人数との組手が課せられている。
 江口師範は五段に昇段されたとき、その50人組手を、なんと無敗で達成されているのだ。
 筆者は師範の四段の審査の応援にいき、40人組手を目の当たりにしたことがあるが、惚れ惚れするほど鮮やかだった。しなやかな上段廻し蹴りや足掛けが何度も美しく決まり、なんというか「完璧」という印象を受けたことを記憶している。
 極真は武道の団体なので、上に立つ人には(人格面のほかに)強さが求められる。自分らにとっては、たとえば子どもの頃に見たテレビや映画のアクションヒーローより強い人が、すぐ身近に実在しているのである。
 人格面でも、江口師範ほど尊敬されているリーダーを身近に知らない。筆者はサラリーマン時代、上役が陰で悪口を言われているのをよく耳にしたが、師範にはそれがないのだ。人間嫌いの筆者でも、「この人と出会えて良かった」と感じられる稀少な出会いである。
 社交的で色々な人と打ち解けられるし、普段は冗談ばかりおっしゃる師範だが、それも場の空気を和ませるためだろう(その冗談はよく特定の人がいじられる傾向にあるようだ)。しかし、有事の際には「やってのける」凄味も濃厚にある。
 それは武道家の凄味としかいいようがない。選手として引退した後でも、江口師範は支部長の座にあぐらをかくことなく、我々が驚くほどハードな鍛錬を日々続けられているのだから尊敬せざるを得ないし、そこから滲み出る貫禄がある。こういうことは、筆者がたまたまこのブログを担当しているから文章化しただけであって、国分寺の門下生なら誰もが感じていることだろう。
 ブログといえば、筆者はこの『もう一つの独り言』をやめさせてもらおうと思ったことが何度かあるが、質はともかく量は曲がりなりにも400回に届くところまで続けてきたのには理由がある。過去にパソコンが急に壊れてしまい(調べてみると5年前の1月末だ)、2ヶ月先でないと新しいパソコンを用立てる資金が入らなかったので、「まあ、仕方ないか」と思っていたのだが、そのとき(今だから明かすが)師範がお金を立て替えてくださったのである。
 普通は誰もそこまでしてくれない。アジアジからは「サボりやがったな」というメールが届いたぐらいだ。少なくとも、このとき買ったパソコンが壊れるまではブログを続けるべきだと思った次第である。
 あれから5年以上が過ぎ、そのパソコンも去年引退している。400回まで続けたら、このブログもそろそろ充分なのではないか、とも思うのですが。
 


   
2020.2.21

第三百八十四回 闇に裁いて仕置する 

 ここまできたら『必殺仕置人』についても触れよう。久々の必殺ネタである。
 考えてみると「新」がついていない『仕置人』のことを書くのは、これが初めてだ。
『必殺仕掛人』につづくシリーズ第二作であり、中村主水という必殺を代表する人物に加え、念仏の鉄という大人気のキャラクターを初登場させた記念すべき作品なのだが、必殺マニアの筆者がこれまでこのブログで取り上げなかったのには訳がある。
 あまり知らないのだ、この有名な作品を。
 見たことはある。が、筆者は往年のブームにのって『仕事人Ⅲ』から入ったクチなので、前期作品からご存じの江口師範から見れば、ミーハーとも受け取られかねないファンの一人なのである。
 だが、その頃は必殺シリーズの視聴率がうなぎ登りになっていた時期で、前期の作品も日曜日などに再放送されており、筆者もそれで『仕置屋稼業』や『裏ごろし』などと共に、この『必殺仕置人』も見たのである。
 幸運なことに第一話から見ることができた。
 ただ、『仕事人Ⅲ』のノリに染まり、その先入観を持って見たところ、かなりの違和感を覚えたことも事実だ。
 まず、中村家の「いじめがマジ」という点である。
 中村主水といえば、裏の顔は凄腕の仕事人なのだが、表の顔は風采が冴えず、奉行所では「昼行灯(つまり役立たず)」とあだ名されるうだつの上がらない男で、家庭では婿養子として妻と姑にいびられている。
 ……という設定になっているが、『仕事人Ⅲ』をはじめ後期の必殺では、家庭のシーンでも、主水は軽んじられこそすれ、ギャグっぽいノリで描かれていた。
 クライマックスの仕事(殺し)のシーンで終わったら後味が悪いという制作側の意向だろうか。殺陣の後、中村家のお茶の間に場面を変えて、コミカルな音楽と共にいつもズッコケの展開でしめくくる、というのがエンディングのお約束になっていたのだ。
 ところが、『仕置人』はちがう。空気が深刻。笑いの余地のない重苦しさの中で主水はいびられている。
「なんなんだ、この重さは」と思ったものだ。シリーズが進むにつれて、せん(姑)とりつ(妻)もカドが取れていったのだろう。
 そういえば、後年では主水が酒を飲む場面も多かったが、最初の『仕置人』の設定では下戸ということになっている。
 また『仕事人Ⅲ』での主水は、秀や勇次の後で、専用の曲「中村主水のテーマ」にのってラスボスをやっつけるという別格の扱いであったが、『仕置人』では、ほかの仲間たちと対等、というのも意外だった。
 というか、主水および他作品の元締め(鳴滝忍やお国などにも)専用の曲が使われるようになったのは『新・必殺仕事人』あたりからで、必殺シリーズでは比較的新しい演出なのである。




2020.2.14

第三百八十三回 この世の正義もあてにはならぬ 

さてさて、先週はネット環境の整っていない場所にいたため、二週間ぶりの提出である。
 前々回の『狼よさらば』、前回の『エクスタミネーター』と同じで、やはりニューヨークを舞台にした必殺処刑人映画に『ブレイブ・ワン』がある。
 主演はジョディ・フォスター。女性の処刑人だ。ゆきずりのチンピラグループによって不条理にも婚約者を遊び半分に殺され、自分も重傷を負ったことから、彼女の人生は一転する。
 相手が外道とはいえ、自分の判断で人を殺していくのだから、「正義の味方」という呼び方は適さないかもしれない。が、主人公エリカ・ベインは非力な女性で、普通の市民だけに切羽詰まった行動であり、自分が返り討ちに遭うリスクも大きい。
 エリカも最初はトラウマと不安から、自衛のために銃を所持するのだが、それを必然的に使わなければならない局面に出会い、さらに行動がエスカレートしていくのだ。
 一方、デンゼル・ワシントンの『イコライザー』は、元CIAの活動員で特殊戦闘能力を身につけており、普通の市民というには強すぎる。少女の境遇に肩入れして過激な行動に踏み切るという点では、『シン・シティ』もそうだし、デ・ニーロの『タクシー・ドライバー』も(やや勘違いした主人公ではあるが)似ていると言える。
 奇妙なのは『処刑ライダー』だ。80年代の香りがプンプン放たれる作品で、「ライダー」という言葉やフルフェイスのヘルメットをかぶったスーツ姿から、いかにもバイクに乗った主人公をイメージしてしまうが、彼が駆るのは特殊仕様の黒いターボなのだ。
 筆者がこの作品を失敗作だと思うのは、「視点」である。仇でもある凶悪な暴走族を一人ずつ処刑していくという点は、社会全体に的を広げていくより、私怨晴らしの復讐譚という点で納得できるが、ラスト近くまで主人公は謎の存在であり、そのため物語は敵側の暴走族の視点で進んでいく。この点で『マッドマックス』とは大いに異なる。
 敵の暴走族は、正体のわからない主人公に苛立ち、恐れ、滑稽でドジな失敗も見せる。リーダーなどは一人の女性に横恋慕し、彼女がほかの青年と逢い引きしている現場を車の中から目撃しては涙ぐんでいる。敵たちが妙に人間くさく、思わず同情したり感情移入したり、なんだか憎めない連中のように思えてくるのは、復讐劇としては失敗ではないだろうか。
 それに、この復讐方法なのだが、物理的であるくせにオカルト風でもあり、もう突っ込みどころだらけで、その矛盾点の説明も最後まで一切明かされない。
 そういう映画なのだ。あまり真剣に考えない方がいいだろう。おおらかな80年代には、これが許されたのだ。ちなみに原題は『The Wraith』、「生霊」という意味らしい。
 さて、『狼よさらば』に始まって、しめくくりもリメイク作の『デス・ウィッシュ』。主演はブルース・ウイリス。イケメンではないが、彼も男くさい魅力のある俳優だ。
 主人公の名前は、ブロンソンの時と同じポール・カージーだが、舞台はシカゴで、職業は外科医。とくればハリソン・フォード演じる『逃亡者』のリチャード・キンブルのようだ。
 悪党が病院に運ばれてきても、その命を救うのが彼の仕事だが、一方でネット上では「死神」と呼ばれ、夜の町で次々に悪を処刑していく。アクションは派手で、シチュエーションもやっつける方法も多彩である。「処刑人映画」が好きな人は大いに楽しめるだろう。




2020.1.24

第三百八十二回 天の裁きは待ってはおれぬ 

 悪者処刑人映画としては、『エクスタミネーター』も忘れてはいけない。
 この作品は異色作で、公開当時かなり話題になっていたことを覚えている。お正月映画だったと思うが、テレビの特番などでも何度か紹介されているのを見た。
 なぜ異色かというと、残虐シーンが多いからだ。主人公のジョン・イーストランド(ロバート・ギンティ)はベトナムの帰還兵で、銃器の扱いは心得ている。
 が、悪者を倒していく方法が銃だけでなく、ギャングのボスを挽肉機に吊り下ろしてミンチにしたり、男娼宿の支配人にガソリンをかけて生きたまま燃やしたりするのだ。
 銃で撃つ場合も、親友の仇であるチンピラにM16という重火器を放ったり、水銀を入れたダムダム弾を使ったり、容赦がない。その容赦のなさがいいともいえる。水銀入りのダムダム弾を自宅で製造する場面も、ほかの映画では見られない売りであろう。
 オープニングのベトナム戦争のシーンでも、ベトナムの兵士が鉈で米軍捕虜の首を斬る場面がある。首はグラリと落ちるが、完全に切り離されず、半分つながったままぶら下がる。この捕虜は斬られた瞬間、目を見開いて口をあけるのだが、もちろん当時はCGなど発達しておらず、ロボットである。
 映画自体は非常に低予算で、ベトナムのシーンもセットであることが丸わかりだし、ロケにしてもアメリカ国内の砂地だと思われるが、こういうロボットを使うことなどにお金をかけているのだ。ちなみに爆発によるファーストシーンからして、この映画は異様である。
 キャストも知らない人ばかり。主人公のロバート・ギンティは、ちょっと危ない雰囲気があるのか、『パニック・イン・スタジアム』という映画では無差別殺人犯の役だった。
 公開当時、児童と呼べる年齢だった筆者は、この主人公をハンサムだと思っていたが、今から見ると頬肉が垂れ気味だし、どちらかというともっさりしたタイプだと思う。テレビ放送時は元プロ野球選手の江本孟紀が主人公の吹き替えを担当していたが、もっさり感が良かった。
 ちなみに筆者は、この作品を映画館で二回見ている。なぜ二回かというと、友達と小遣いの許す範囲で、場末の映画館を選び、二本立てで見たからだ。一回は『地獄の謝肉祭』という怖い映画と、もう一回はスティーブ・マックイーンの遺作となった『ハンター』との二本立てで、二回目はその『ハンター』を見たかったという事情がある。
『エクスタミネーター』に出てくるチンピラも、『狼よさらば』と同じで、いかにも悪者らしい外見をしているのがいい。『マッドマックス2』や『北斗の拳』もしかり。やっつけられ感が充実する。『エクスタミネーター』はやっつける側もやりすぎの面があるが。
 ところで『マッドマックス』もそうだが、この映画、ポスターと異なっているのだ。
「地獄の戦場からニューヨークへ 凄いやつが帰ってきた」というようなコピーと共に、炎が出ている火炎放射器を構え、フルフェイスのヘルメットをかぶった主人公が写っている。いかにも面白そうである。が、火炎放射器はチンピラを脅して尋問するときだけで、処刑には用いない。服装も全然ちがう。
 と書いているうちに、ほかの作品に触れる余裕がなくなった。この調子でいくと書けないままなので、ペースを上げるということで、次回につづく。




2020.1.24

第三百八十一回 のさばる悪をなんとする 

 いきなりで恐縮だが、
「のさばる悪をなんとする」
 とくれば、
「天の裁きは待ってはおれぬ」
 とつづくことは誰もが知っているとおりである。
   さらに、これも皆がご存じのように、
「この世の正義もあてにはならぬ。闇に裁いて仕置きする」
 とつづく。言わずと知れた『必殺仕置人』ならびに『新必殺仕置人』のオープニングナレーションである。
 だが、今回は必殺シリーズの話ではない。映画のジャンルでこういう分類はないと思うが、あえて言うなら「必殺処刑人」映画の話である。つまり警察などの公権力を持たず、体制側に属さない一介の市民が、独力で悪人を処刑していくというストーリーの作品だ。
 その原点(もちろん筆者が知る限りの)は、『狼よさらば』ではないだろうか。
 男臭い俳優の代表、チャールズ・ブロンソンが扮するポール・カージーは、ごく普通の生活を送っている真面目な市民。職業は建築技師だ。
 彼の留守中、宅配業者をよそおった三人の暴漢が家に押し入り、妻は死亡、娘も危篤状態に陥る。襲った三人組は、いかにもチンピラ然としていて、暴行シーンもかなりえげつない。見るものに、これは許せないだろうという感想を抱かせる。
 仕事中に事件を知らされたカージーは大きなショックを受けるが、なにもできない。娘には婿がいるのだが、彼も無力。やがてカージーは、仕事先の顧客から一挺の拳銃をプレゼントされ、これが彼の人生を変えていく。
 初めは物騒な世の中を警戒して拳銃を携帯していたのだが、チンピラに襲われ、自衛の手段として思わず拳銃を使う。そして二度目も……と、このあたりの課程が、とても自然に描かれている。最初から血気にはやって殺人者に変貌するのではなく、ごく普通の市民が無理のない状況下で反撃に目覚めていくのだ。
 彼の連続した行動によって犯罪は減少し、やがてカージーは「アマチュア刑事」と呼ばれ、ニューヨーク市民の隠れた英雄になっていくのだが……。
 ひとつすっきりしなかったのは、大元の仇敵である妻と娘を襲った三人組を処刑しなかったこと。まあ現実としては彼らに出くわす確率の方が低いだろうが、娯楽映画としてはムズムズする。ただ、ラストシーンが抜群に良かった。ちなみに続編も制作されている。
 この種の映画、幅を広げるなら、『ダーティハリー』や『ロボコップ』や『コブラ』も含まれるかもしれないが、彼らは警察官である。
 警察官でなくても『バットマン』や『スパイダーマン』といったアメコミのヒーローたちも、無償奉仕で世の悪を罰していくという点では共通しているが、ここでは、いわゆる正義の味方ではなく、なんら特殊能力を持たない、あくまでも一市民の過激な活動を取り上げたい。 そういう作品はまだまだある。というわけで、次回につづく。




2020.1.16

第三百八十回 蚊帳と火鉢 

 古きニッポンの、夏と冬のアイテムである。どちらも現在の子どもたちは現物を見たことがないだろう。
 昭和の男である筆者は、どちらも見たし、使った。実家にあったからだ。
 蚊帳は、令和の小学生も「トトロで見た」と言う。ジブリのアニメ『となりのトトロ』に出てくるのだとか。この映画は筆者も見たが、もうずいぶん前なので忘れた。田舎の夏を演出する小道具として、いかにも使われそうである。
 また必殺シリーズにも時々出てくる。『新必殺仕置人』では、巳代松が撃った短筒の弾を受けて、蚊帳に体を巻き込まれるように転がった悪役もいた(といっても何のことかわかりませんね)。
 筆者の実家では祖母が持っていたし、母方の田舎の家にもあった。どちらも新品ではなく、すり切れて色もあせた古い蚊帳だった。
「垂乳根の 母が吊りたる 青蚊帳を すがしとい寝つ たるみたれども」
 という長塚節の短歌があるが、青いというより、薄い水色になっていたことを覚えている。
 小学生だった筆者らは、この蚊帳に入るのが楽しかった。
 お盆に神戸の従姉妹たちが遊びに来たとき、(前にも書いたが)南紀のボロボロの別荘に泊まり、蚊帳の中で雑魚寝したのだ。妹は幼稚園児で、あとの三人は小学校の一年生から四年生ぐらいだったか。
 テントで寝るようで、その非日常ぶりが楽しいのだが、さらに蚊が入らないように素早く滑り込むように中に入らないといけないのが面白かった。
 一方、火鉢である。これも昔は祖父母の家にあった。
 火鉢というものを知らない人でも、時代劇を通して見たことがあると思う。古来から使われてきた暖房具で、抱え込むほど大きな陶器の鉢である。
 中央に炭を据える。その燃焼で暖を取る。だから燃え尽きると灰になる。炭をあつかうのに火箸という長い金属の箸を使う。
 実家では、冬以外の季節は押し入れに収納されていて、寒い季節になると出されていた。
 もちろん暖房の機能のほかにも、上に網をおいて餅や酒粕を焼いたりできる。つまりストーブと同じだ。
 実家では庭に面した部屋に置かれ、庭の前には縁側があり、部屋と縁側のあいだは、上が障子で下半分がガラス窓になった風情のある戸に隔てられていた。
 このガラス戸はイメージしてもらえるだろうか。現在の実家では、味も素っ気もないサッシに替えられているが、筆者ぐらいの年齢になると昔ながらで懐かしく感じる。
 母方の実家では、使わなくなった火鉢を金魚鉢にしていた。つまり、庭において、中に藻なども入れ、鉢の中で金魚を飼っていたのである。金魚鉢としては巨大な部類だろう。  透明ではないうえ、深くて暗いので、上からのぞき込んで藻を掻き分けても、底の方にいる金魚はなかなか見つけられない。お役御免になってからも、別の用途で役に立っているのが微笑ましかった。




2020.1.9

第三百七十九回 いまさらながら世界大会 

 テレビ放映された第12回世界大会の番組を、わけあって今ごろ見た。
 当日、筆者は仕事を休めなかったのだが……これを見ると、生で観戦できなかったのは損失だと思った。
 このブログの読者の方々にとっては、いまさらなにを、という内容になるだろう。また細かいことを書いても仕方がないとは思う。
 過去の世界大会をふり返れば、アンディ・フグやフランシスコ・フィリォ、レチやテイシェイラなど、その時代での最強の外国人選手がいて、事前情報としてその脅威が騒がれたものだが、今回はむしろ4強と呼ばれる日本人選手たちのほうが盤石の安定感があったように思える。
 高橋佑汰選手は華があり、試合場にあがれば勝っても負けても必ず会場を沸かせる戦いをしている。スター性の高い選手で、いかにも現代の若者という感じもあった。世界大会の準決勝でイエロメンコ選手と笑顔を交わし合っているのだ。
 優勝した上田選手は、もう向かうところ敵無しといった試合運びで、インタビューの内容を聞いていても、勝つべくして勝っているという印象を受けた。
 判定はかなり公平だったと思うが、海外の応援団のブーイングは耳障りだった。テレビ放送でもピーピー聞こえていたので、会場ならもっとやかましかったのではないか。大山総裁なら一喝して黙らせただろう。
 女子の試合も決勝はノーカットで放送されていたので、すべて見ることができた。
 本戦の序盤からフルスロットル。あんな動きを続けたら、筆者ならたちまち息が切れてしまう。「女子空手の歴史に残る」という解説が誇張に聞こえない試合。やっていない人には、このような動きがどれだけ消耗するか、伝わるだろうか。
 あくまでも個人的な印象だが、延長二回目では佐藤さんに旗があがると思った。試合の流れがそうなっていたし、あと一回でも延長戦があったら。……などと言っても仕方ないことであり、永吉さんに失礼だろう。
 それにしても、観客の心に刻み込まれる試合ができる二人は、本当にいいライバルだと思った。永吉さんはもう引退するのだろうか。この二人の試合、また見たいのだが。
 さて、解説の木山師範が「世界大会には伏兵がいる」とおっしゃっていたが、まさしくロシアのイゴール・ザガイノフ、そしてアンドレイ・ルジンが思わぬ伏兵となった。
 ザガイノフは俳優のような童顔で、まだ20歳だが、それだけに伸び伸びとした動きで、安島選手や鎌田選手といった元全日本王者2人から1本を奪うなど、まさに台風の目といった波乱を呼んだ。
 ルジン選手も若いのに、勝って握手をするときでも氷のような無表情でニコリともしない。ロシアというより、旧ソ連時代の選手のような冷徹な印象がある。この二人は年齢的にも、次回の世界大会に出てくるだろう。
 現在は、昔のように選手生命の短い時代ではない。鎌田翔平や荒田昇毅も、これがラストチャンスなどと言わずに、第13回世界大会にも出場して欲しい。