2016/6/3
【群鶏図】

八王子 八王子みなみ野担当の大谷です。 やって来ました二十六回目 イジメ、ダメ、ゼッタイ さて何書くか・・・


生誕三百年 伊藤若冲大回顧展 去年あたりから 街中でもジャクチュウの噂話ばかりなり そんなに日本人はジャクチュウがお好き ジャクチュウと言えばニワトリ。 絵を描くために庭に鶏を大量に飼っていた話は有名だ。
そんなにニワトリになりたいか。 三歩 歩いてくりかえす 飛べない 暗くなったら何も見えない 毎朝 タマゴを生みたいか 追いかけまわされ泣きたいか ふんばれ 生めよ 増やせよ 馬鹿騒ぎ 何が何でも目玉焼き。
上手く出来たらタマゴ焼き。 食い飽きた ゆでても味は変わらない。
それでもトサカは真っ赤っか!と言ったか定かではないが ジャクチュウの最高傑作【群鶏図】を含む【動植綵絵】30幅 さらに【釈迦三尊像】3幅を同時展示。
東京ではなんと初めてのこと。 海外にある【鳥獣花木図屏風】も揃い こんなにジャクチュウ作品のオールスターが出揃うのは一生ない。 モッタイナイからモッタイナイから いざ都美へ。


江戸中期の1716年の京 錦小路の野菜や果物を扱う青物問屋の嫡男として生まれ 若くして家業を継ぎます。
しかし 家業にはあまり身が入らず 唯一夢中になれる絵を習います。 部屋に籠っては中国画を千枚以上 模写したそうです。(驚き)
しかし どんなに模写しても中国の画家より上手くはなれないと感じ 本物を見て描くことにします。
40代にして弟に家督を譲り 絵に専念 庭に鶏を放ち 毎日何年も見続けたといいます。
まさに変態です。 描いている姿を見た儒学者の皆川淇園は言います。
筋目描き(輪郭線を使わず墨の濃淡のにじみで描く)で菊の花を描くのを見て 「白い紙に筆を活かせて腕に狂いなし ただ層を重ねて淡い墨の花を簿かすだけなのに 何処より かくも妙なる赴きを生み出すのだろう・・・」 。

30代に禅宗に帰依していたジャクチュウ。 師は大典顕常。
ジャクチュウという居士(出家せずに修行する者)号を付けます。
その由来は老子 「大盈は冲しきが若きも 其の用は窮まらず」 (満ち足りているものは空しいようでいて その働きは極まることはない)。
さらに その紹介で知り合った黄檗宗の僧 月海元昭 書家詩人としても知られ いずれは由緒ある寺の住職になる人物でしたが その道を捨て 鴨川の畔に茶店を開き 煎茶を売り歩き 生きる糧としたことからバイク王ならぬ売茶翁(バイサオウ)と呼ばれます。
その生き方(安逸な道を選ばず 茶を通じ 禅の思想を伝えながら自らも修行をする)に深く傾倒 ジャクチュウもそれに倣って晩年には斗米翁と名乗り 望む人には絵一枚を米一斗で売り 生きる糧としたそうです。


冒頭の【動植綵絵】と【釈迦三尊像】40代半ばにて取り組み 仕上がったのは10年後 釈迦三尊像を囲むように 草木 植物 魚 昆虫 鳥獣 生きとし生けるものを描き切ります。
極彩色は細部まで行き届き 省略している箇所が一つもない 全ての対象に焦点があっています。 日本画の顔料は色の密度がそれぞれ違うので混ぜると濁るため色数が少ない。
群青 緑青 辰砂 鉛丹 胡紛 黄土などを使い 重ね塗り(塗る順番を変えて色を変える)や裏彩色(絵の裏からも彩色する技法)で色数を増やします。
絹地の保護のための紙にも色を塗り 色の発色を変える徹底ぶり 他にも没骨法(余白で輪郭を表す)など 現代でなくては解明出来ない技法が駆使されています。
下書きがないうえ 一つも書き直しがない。 しかも たった一人で描いたという細密描写 恐るべき集中力(汗) それを京都五山第二位の相国寺に寄進します。 寺側は頼んで描いてもらったわけでもないうえ 相手は商人という身分から 菓子折り一つの御礼で済ませたという。(涙)


ジャクチュウ自身 そんなことは気にもしておらず 草木国土悉皆成仏(草木や国土のような心を持たないものにもすべて仏が宿っている)の世界観を表したかったという「私は才能の乏しい身ですが日頃より絵画に心と力を尽くし 常に草木 植物 鳥や虫の姿を描き尽くしたいと思っております。
そして遂に釈迦三尊像と動植綵絵を書き上げたのです。
世間に画名を広めたいといった軽薄な志で描いたのではありません。 全てを相国寺に喜捨し 莊厳の具となり 永久に伝えられることが望みです」。
この絵を創作中に見た売茶翁は感嘆のあまり「丹精活手の妙 神に通ず」という書を送ったという ジャクチュウが感極まったことはいうまでもない。
相国寺の観音懴法(一人一人が生まれながらに備えている仏の心を取り戻す儀式)の冬至の日に公開されます。
そのときのことを振り返り 友人の医師は「客達は心酔し 長いこと溜め息をついた 聞けばジャクチュウは この絵を然るべきところに納め 見る目のある人を千年の間 待つという・・・。
この絵の素晴らしさは 今 もう明らかなのに・・・」。


58歳のとき僧号を授けられ 世俗を離れ 禅の道に邁進するように薦められたそうです。
しかし 彼をよく知る大典によれば それ以前の生活も殆ど僧侶のように禁欲的 頭を丸め いわゆる旦那遊びとは一切無縁で独身を貫き さらに生臭い野菜や肉も食べない。
市場で売られる雀が焼鳥にされるのを憐れみ 数十羽買い取って空に離してやるほどだったという。
五十を過ぎた頃からは 「これ(動植綵絵)以上に今後の人生で何かを行うことはあるまい。
ただ 絵を米に変えて悠々と寿命を全うしたい。 生きて そして死ぬ・・・」しかし 大典に 生きている限り 草木国土悉皆成仏の世界を この世のものを全て描き尽くせと一喝され 絵に残りの人生を捧げます。
73歳 天明の大火により家や財産 全てを失ったジャクチュウ 人里離れた石峰寺の門前に身を寄せ 85歳で没します。
墓碑には大典の言葉で「墓に入るとき あなたは安らかに土の中に入ったのだろうか あなたはここに名を結びとめたのだろうか・・・」 絵を描くことそのものが心の修行だった。


意外にもジャクチュウの絵は最近まで忘れ去られ 再評価され 人気が出たのは最近の没後二百年の2000年からだという・・・


「私の絵は千年後に理解される」その真意は 絵の技法のことでもなく 絵の価値のことでもない 人々が自己の仏心に目覚めたときにだけ 理解が出来るということなのかもしれない・・・だとすれば千年掛かるのもわかる気がする・・・厳しい世界だ 。


千載具眼の徒をまつ


その問い掛け(公案)は 今 なお続いている・・・


果たして我が輩はジャクチュウを理解出来たのであろうか? 次回がないことを祈りつつ・・・。