2015/8/17
出を待つ(道化師)


八王子 八王子みなみ野担当の大谷です。 やって来ました二十三回目 苦しいのです 苦しいのです・・・さて何書くか・・・

金沢が誇る洋画家 鴨居玲 北陸新幹線開業を祝う余韻冷めやらぬ東京駅にて没後30年を記念しての大回顧展、 雨の東京ステーション 泣いてるステーション さらば相棒 いざ終わりのない旅へ。

尊敬する洋画家 増田常徳氏に 貴方に影響を与えた画家は誰かの問いに返って来た答えは予想外にも「鴨居玲・・・」 知らない・・・(汗)。 アムロ・レイなら知っていたけど恥ずかしい(赤面)。 それ以来 カモイ・レイの名前は忘れることが出来ないものへと変わり、 直接 見る機会を切に願ってきた。 なんと東京での回顧展は25年ぶり。 赤の衝撃【出を待つ(道化師)】代表作【1982年 私】も勿論登場 晩年はゴヤやゴッホのように自画像を描き続け 一度見たら忘れられない醜悪なる画風 カモイ・レイとは何者なのか?

新聞記者の父を持ち 転勤などで海外も含め 各地を転々とします。 後のカモイ・レイの引っ越し癖はこの時が始まりだったのかもしれない。 文化人だった父の交友関係から戦争疎開していた二紀会の画家 宮本三郎を支持し 戦後 出来たばかりの金沢美術工芸専門学校に進学「デッサンタコのないものは画家ではない」自身 肘が曲がり 腱鞘炎になるくらいデッサンを繰り返したことが後のカモイ・レイの基礎を作ったといえます。 在学中に二紀会初入選を果たしますが父親が亡くなったことで経済的基盤を失い 金沢を離れ 会社勤めをしながら 画家としての活動を続けます。 入ったお金はその日の飲み代に消えるという放蕩生活(涙) 恩師 宮本の計らいで服飾デザインの学校の講師の職を得ます。 そこで出逢った結婚相手(デザイナー)が裕福な家柄だったため 画家としての生活が成り立ったともいえます。 すぐに別居する関係ですが 何故か離婚はせずに支え続けた!? カモイ・レイの写真を見ればわかるとおり容姿端麗で女性にモテたことが分かります。 外国車を乗り回し 派手で奇抜な服装が自然に似合う男 でした。 しかし 画家として自分の描くものが見つけられず 時が過ぎ 焦りを感じ 懊悩の末 姉で下着デザイナーとして成功を収めていた鴨居羊子の援助を受け 海外修行に出ます。 ブラジル ボリビア ペルー フランス イタリア・・・ブラジルでは メキシコ人画家ラファエル・コロネルの絵に衝撃を受け帰国、 それを切っ掛けに2つの賞を受賞(涙) とくに安井賞を取ったことは大きな自信になります この時 カモイ・レイは41歳 画廊との繋がりも得て 憧れの地スペインへ。

ラ・マンチャの男 ドン・キホーテが舞台のスペイン バルデペーニャス そこで過ごした九ヶ月 そこで出逢った老婆 廃兵 酔っぱらいなどのモチーフがカモイ・レイの代表作品に生まれ変わります。 カモイ・レイは言います。「今まで若い女性を描かったのは彼等にはシワがないんです 人生の何かが出てこないんです のっぺらぼうで・・・」 パリの個展の機会を得て テレビ出演まで果たします。 また 後に仏大統領になるミッテランが購入したことは有名な話です。 さらにニューヨークでも個展を開催し話題になります。 海外を拠点に活動するかと思われましたが 放浪癖があり 同じ場所に留まることができないカモイ・レイはヨーロッパの地を転々とした後 活動に見切りをつけ 神戸に拠点を移します。

晩年の神戸時代 心臓を病み そのためか疲れ果てた自画像姿が作品の中心になっていきます。 若いときから自殺願望を持ち 自殺未遂を何度も繰り返してきたことは有名な話でした。 カモイ・レイの後半生を支えてきた14歳下の女性 写真家の冨山栄美子さんは何度も狂言自殺とまで云われた自傷行為に付き合わされてきました。 大量の睡眠薬を大量のウイスキーで飲み干し 窓を密封してガスを入れて横になる その間に身近な人にあて遺書を殴り書きする、 あるときは 「火をつけるな!」と部屋中に張り紙をして周囲の人を巻き込まない配慮さえもしていたといいます。 発見され 病院に運ばれて胃を洗浄 生きて帰ってくると自殺のことはすっかり忘れたかのように制作をしていたといいます(驚き)。 【1982年 私】何も描かれていない白い大きなキャンバスを前にした自画像 その周りにカモイ・レイがモチーフにしてきた老婆 廃兵 酔っぱらい 道化師 放浪楽士 ボリビアのインディオ 愛犬などを描き込み まるで総集編のような作品です。 ベスト オブ カモイ・・・この作品は いつもは売れる個展の中で 何故 か売れ残り 画廊の中で忘れられていた作品でした。 死後 それを発見したカモイ・レイの故郷 石川県立美術館が買い上げたとのこと 不思議な縁だ・・・

1985年9月7日 気配を察した栄美子さんは知人に頼み カモイ・レイのアルコールと睡眠薬の併飲と自動車での排ガス自殺を未然に防ぎます。 しかし 意識を回復し 一人になったところを再度の自殺を図ります。 さすがに心臓が持たなかったとも云われています 享年57。

亡くなる一年前に描かれた【出を待つ(道化師)】ここにあるのは強烈な赤だ。 赤を背景に出番を待つ道化師姿の自画像 血の色なのか地獄の焔なのか・・・村山槐多のガランスや関根正二のバービリオンを思い起こさせる。 しかし 彼等とは違う味わいで突き抜けた赤だ・・・共通するのは孤独 不安 悲哀 絶望 死・・・死を身近に感じていなければ描けない作品だ。

カモイ・レイの初めての個展の切っ掛けを作り、 深く関わった作家の司馬遼太郎、 その縁で司馬の小説の題名からとったカモイ・レイ作品も多い。 その司馬の新聞小説【妖怪】に出てくる室町時代の歌謡を集めた閑吟集の歌の中に 「憂きも一時 嬉しきも 思ひ覚ませば夢候よ」「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ・・・」 絶筆と云われ 発表されていない襖絵があります。 白地に墨で 左側には首をくくる自画像 右側には生首の自画像・・・カモイ・レイの自殺の理由は未だに解りません・・・本気だったのか狂言だったのか。 しかし 今となっては意味のないこと 作品を見た者がどう感じるかのか・・・ただ それだけ・・・

一期は夢よ ただ狂へ

我が輩は果たしてカモイ・レイを理解出来たのか?・・・次回がないことを祈りつつ・・・。