2014/7/10
スラブ叙事詩
八王子 八王子みなみ野担当の大谷です。やって来ました4年に一度のワールドカップ ではなくて 来なくていいよ十九回目。 アディショナルタイム息切れ寸前 さて何書くか・・・
アルフォンス・ミュシャ大回顧展、ポスターの金字塔【ジスモンダ】、そして彼の集大成【スラウ゛叙事詩】(残念ながら映像のみ)等々、アール・ヌーウ゛ォーの旗手、ベル・エポックの寵児と呼ばれた日本でも人気の高い画家の人生とは如何なるものなのか。そしてモラウ゛ィアの祈りとは・・・いざ森美へ。
生まれは 当時オーストリア・ハンガリー帝国、ハプスブルク家が支配するチェコ 南モラウ゛ィアにて肖像画を描く。仕事を切っ掛けにパトロンを得ます。その援助で何とかパリで美術の修行することになったミュシャ、しかし、雑誌の挿絵画家をやりながら芽の出ない時期を過ごします。そんな折、友達の代わりに働きに出ていた印刷所、最初の印刷所にキャンセルが出て急遽 演劇用のポスター(リトグラフ)のデザインを頼まれます。そこに偶々、居合わせたミュシャ なんという巡り合わせか!? 演劇の主役はパリの女神 サラ・ベルナール、彼女の外面の美しさのみならず内面までを描き出そうとするデザイン画のポスター 商業美術 商業デザインの先駆けと言われる傑作【ジスモンダ】の誕生、この無名の画家の作品を目にしたサラは あまりの感激に涙を流し この画家を黙って抱き締めたという。
この作品を切っ掛けに時代の寵児になったミュシャ、ポスターからカレンダーに装飾パネル、さらに油彩画、彫刻、演劇の舞台衣装、舞台装置、宝飾品のデザインまで多岐に渡り制作をします。絵がまだ高価で一部のお金持ちのためのものであったことから、庶民の手に入り易い装飾パネル(観賞用のポスター)に特に力を入れます。ミュシャは言います。「美は善なるもの 目に見えない精神的な世界と目に見える外面的な世界の調和 芸術家の使命は美で大衆を啓蒙し、インスピレーションを与えることで彼らの生活の質をより豊かにすること」この使命感を持ってミュシャは描き続けます。しかし 時はパリ万国博覧会、ハプスブルク家にボスニア・ヘルツェゴビナ館の装飾を頼まれたミュシャ 皮肉にも祖国を支配する側をパトロンに持ち、大国の支配に甘んじてきた民族を演出する、彼のアイデンティティは大きく揺らぎます。彼はこの時、決意します わが民族(スラウ゛民族)とわが祖国(チェコ)のために絵を描こうと・・・パリにて秘密結社フリーメイソンに入団したのもこの頃でした(汗)。
この頃からスラウ゛の民族衣装を身に纏った女性の油彩画を多く描き出します。結婚相手も同じスラウ゛人の女性がいいと考えていたミュシャは20歳以上も違うスラウ゛人女性と結婚する徹底ぶり(驚き)。
第一次世界大戦後 オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊とともに 祖国はチェコスロウ゛ァキア共和国(チェコ人とスロウ゛ァキア人の連邦国家)として独立します。復興に尽力するため祖国に戻ったミュシャ 国に依頼された仕事(切手や紙幣 国章のデザインなど)を無償で引き受けていきます。その少し前、アメリカでの資金援助を受けた際に、同じ故郷の作曲家、スメタナの交響詩【わが祖国】を聴きます。この曲に感動したミュシャはスラウ゛人の歴史を描こうと考えます。ミュシャにインスピレーションを与えたスメタナ自身、チェコの独立革命に参加し、自分の生涯は祖国のため、祖国の芸術のために捧げると誓っていました。作曲の際には 完全に耳が聴こえなくなりますが、苦心の末 5年の歳月をかけて完成させます。その想いを受けてミュシャによって描かれたのが油彩画の大作【スラウ゛叙事詩】 20点にもなる壁画のようなこの絵 汎スラウ゛主義に基づいた空想のスラウ゛人の歴史を描き切ります。完成までには何と20年の歳月がかかりました。勿論コラボレーションしたわけではありませんが、この曲を
聴きながら この絵を見ると スメタナとミュシャの狂おしいまでの祖国への思いが溢れるばかりに迫ってきます(涙)。
独立から僅か20年 二回目の世界大戦前夜 ナチスドイツに攻め込まれたチェコスロウ゛ァキアは 呆気なく解体されます。危険人物としてゲシュタポに連行されたミュシャ 5日間にわたる過酷な尋問は78歳という年齢には耐えられるものではありませんでした・・・解放され 間もなく亡くなります。
ナチスが去った後、祖国は共産主義というイデオロギーに支配されていきます。独立は保っているものの愛国心を呼び起こすミュシャの存在は黙殺され続けます。共産主義の中の改革、1968年プラハの春のとき、ようやくミュシャ作品の切手が制作されます。しかし 体制崩壊の危険を感じたワルシャワ条約機構軍の戦車の進入によりプラハは占拠され、自由は踏みにじられていきます。真の独立は冷戦後の1989年ビロード革命まで待たなくてなりませんでした。
2014年 連邦制解体後、同じハプスブルク家の支配下にあった旧ユースゴスラビア領のボスニア・ヘルツェゴビナ、隣人同士が殺し合う内戦を経て、苦心の末、ワールドカップに初出場します。その初ゴールに涙した元日本代表監督だったオシム・・・祖国の独立 そして民族の連帯と共存が如何に難しいものであるかを教えてくれたような気がします・・・哀しいことにそれは今でも続いている・・・ミュシャの想いとは スラウ゛人の連帯と他民族との共存 そしてそれが世界の平和に繋がるという想いでした・・・一つの民族だけではない 利他の心・・・それがミュシャの祈り モラウ゛ィアの祈り・・・
果たして我が輩はミュシャのことを理解出来たのであろうか? 次回がないことを祈りつつ・・・。